★説明的文章の指導の中心的なねらい
①事実と論理の読み取り
②上位概念、下位概念
★説明的文章の指導順序
0, 表層よみ
① ジャンルの確認
文章によって読む目的が違ってくる。その文章がどういった文章かを見極めるちからをつけることが重要。
最近論説文も小学校の教科書にも載せられるようになってきている。
・記録文=「時間の論理(順序)」で書かれている
・説明文=「時間のの論理」以外で書かれたもの。定説を説明したもの。
・論説文=「時間のの論理」以外で書かれたもの。仮説を論証したもの。
② 段落の指導
③ 語句の指導
④ 音読・範読
1, 構造よみ
前文(問題提示・話題提示)全体を包括する問題・話題。時には結論を述べることも
本文(前文で提示された問題を説明)
後文(全体を包括するまとめ・結論、残された問題、新しい問題)
低学年では三部構造のないものが多い。
構造よみでは「包含関係」を重視する。(前文・後文は全体を包括しているかどうか)
本文がいくつかに分かれる場合は本文Ⅰ、本文Ⅱ、、、として区切り小見出しをつける
① 前文を明らかにする。→説明文の内容目的を理解。
② 後文を明らかにする。→前文との整合性に着目。残りが本文。
③ 接続語、くりかえし使われる言葉などに着目し手がかりとする。
2, 論理よみ
段落相互、文相互の関係を読み取る
上位概念下位概念を育てる
要約の仕方を学ぶ
・前文(問題文を明らかにする。)(後文や本文との整合性をみる)
・本文(段落相互、文相互の関係を読む)
記録文=「いつ」を基準に5W1Hで要約する。
説明文=柱の段落(文)をもとに段落関係(文関係)を読み取り、要約する。
柱←(説明、例、理由、、)
論説文=前提→結論の関係を読み取り、要約する。
※要約文=柱の文を明らかにし、柱の文を要約する。(分節に区切る。内容や制限字数に合わせて下から取捨選択していく。常体にする。)
・後文(要旨を読み取る)
3, 吟味よみ
★事実現実との対応を吟味する
① 事実が現実と対応しているか
② 事実が二つ以上に解釈できて誤解を生じさせないか
③ 誤解を与える事実提示はないか
④ 事実提示に誇張・矮小化はないか
⑤ 選ばれた事実は妥当か
★柱と他の関係を吟味する
① 柱と説明(例)の整合性はとれているか。適切か。
② 他に説明(例)は考えられないか
③ わざと隠されている(見落とされている)説明(例)はないか
★論理関係を吟味する
① 論理に飛躍・すりかえ・ねじれはないか
② 論理の整合性はとれているか
③ 前文と後文の整合性はとれているか
④ 後文の根拠はあるか。
記録文=事実の吟味
説明文=事実と論理を吟味
論説文=前提と結論の関係を吟味 仮説の検証
吟味読みは、時には表層、構造、論理よみの段階で平行して行うこともある。
特に後文と本文での説明の論理関係に着目。後文の論証として本文は十分か、整合性はとれているかなど。
4, その他
・「指示語」「接続語」「比喩」などの指導も必要に応じて行う。
・学年ごとの中心内容
1年生→表層読みと吟味読み(書かれていることの把握、事実の読み取りと、文、段落の意識付け)
2年生→表層読みと吟味読みと構造よみの導入
中学年→表層読み・構造よみ・吟味読みと論理読みの導入
高学年→表層読み・構造よみ・論理読み・吟味読み
2013年5月7日火曜日
2012年8月21日火曜日
人吉球磨の仲間からの質問について
・・・・人吉球磨の仲間から次のような質問がありました・・・・
①授業研究の冊子を見ると、先生とこどもの問答がたくさん見られます。子どもが考える時間や班会議などの時間もきちんととっていますか?(問答だけでは、発言できない子や意見を持たないまま授業に参加する子がいる気がするので・・・・)
②子どもが板書をノートしたり、自分で考えを書いたりする時間は、たくさんとりますか?また、構造読み、形象読みなどで自分の考えをまとめるのは、授業の時間だけで足りますか?
・・・・私の返信・・・・
子どもが考える時間ですがもちろんとっています
構造よみでは、特に班での話し合いをするのが常です
形象読み、主題読みになると、班での話し合いもしますが
「一人よみ」(教材のコピーを貼付けたノートに書き込む)ことが中心になります
そして最も重要な箇所では班での話し合いをさせるようにしています
「大造じいさんとガン」の本に載せてある授業記録は、私の授業記録ですが
私自身は授業中に班会議を多様するのが常です
その話し合いの様子がわかるように
「大造じいさんとガン」の本の中に、
班会議をしている子どもたちの机に録音機を置いて、
班での話し合いをまるまる録音し、それをおこし記録を載せています
「一人読み」もそしてその指導も原則授業の中でさせています
一方、「ごんぎつね」の方は、20年来の国語の仲間の授業記録で
その人は、「一人読み」を原則として宿題としてさせています
ですので「ごんぎつね」の本の山場の部の授業記録でわかりますが、
最初に「一人読み」の確認をさせています(P47 T3)
教師は、授業の前に宿題の「一人読み」に目を通しています
もちろんいきなり「一人読み」ができるわけもなく
最初は授業中に書かせ、書けない子には指導をしています
(「ごんぎつね」の本は持ち上がりのクラスです)
宿題でさせる段階になってからも
必ず目を通して、書けていない子には個別指導を入れたりしています
班会議は意見を持てない子のためにだけあるのではありません
もちろん当初はそういう役割があるのですが
なにより
教師の指導=一人読みの個別指導
子どもの経験=読む力の蓄積
の積み重ねで
意見を持てるようにすることが大切で
それぞれの意見を出し合い深める
あるいは、自分とは違う他の意見を聞くことで新たな視点なりが見えてくる
そのために班会議はあると思います
私が班会議を多用し、もう一方の方が一人読みの宿題を多用するのは
私のもう一人の方のこれまでのクラス規模の違いがあると思います
私ともう一人の方は20年ほど前にある学校で2年間同学年でした
それから私はほぼ30人以上のほぼ大規模校で教員生活を送り、
しかもここ十数年は一年限りのクラスであるのに対し
もう一方の方は、20名程度あるいはそれ以下の単独クラスの、
しかも持ち上がりで教員生活を送っています
その環境というか、条件の違いが
授業スタイルの違いの原因の一つになっていると私は思っています
先生はメールに「問答」と書いていますが
「問答」と「討論」は違います
ある場面は「問答」だし、ある場面は「討論」になっているはずです
混合している時もあります
ただ
基本的には
構造よみは「討論」的です
形象読み主題よみは「問答」的です
それは「構造よみ」と「形象・主題よみ」の性質の違いからきています
「構造よみ」はある意味決着をつける方向で授業が進むのが常です
一方「形象・主題よみ」は、みんなで造り上げる、読み広げる
みんなで深め合う方向で授業が進むからです
ここまでが①に対する回答です
次に②です
私は授業中にノートの時間はとっています。自分で考える時間もとります
「たくさん」かどうかは「たくさん」が比較する言葉ですからわかりません
なにと比較して「たくさん」かがわからないからです
ただ、どちらにせよ授業中だけでは時間はたりないと思います
「残りは宿題」ということにしたり、
「残りは次の時間(他の教科)のチャイムがなって5分間(時には10分)あげるから
そこで書きなさい」のどちらかです。
ただ、基本的に「一人読み」で書き込みができていますから
たりない部分のみを書けばいいわけです
そのためにはノートの工夫が必要です
「ごんぎつね」の本に載せているプリントを使ったり
教材をコピーしたものを貼らせておいたり、、、、
ただ、最近は、授業の記録を取らせるより
授業の気づきや感想、わかったことを文章で書かせることが多いように思います
明治図書「石臼の歌」には昔の私が指導した子どものノートが資料として載っています
まあ、今とはずいぶん違うので、参考にはなりませんが、、、、
・・・・人吉球磨の仲間から次のような質問がありました・・・・
①授業研究の冊子を見ると、先生とこどもの問答がたくさん見られます。子どもが考える時間や班会議などの時間もきちんととっていますか?(問答だけでは、発言できない子や意見を持たないまま授業に参加する子がいる気がするので・・・・)
②子どもが板書をノートしたり、自分で考えを書いたりする時間は、たくさんとりますか?また、構造読み、形象読みなどで自分の考えをまとめるのは、授業の時間だけで足りますか?
・・・・私の返信・・・・
子どもが考える時間ですがもちろんとっています
構造よみでは、特に班での話し合いをするのが常です
形象読み、主題読みになると、班での話し合いもしますが
「一人よみ」(教材のコピーを貼付けたノートに書き込む)ことが中心になります
そして最も重要な箇所では班での話し合いをさせるようにしています
「大造じいさんとガン」の本に載せてある授業記録は、私の授業記録ですが
私自身は授業中に班会議を多様するのが常です
その話し合いの様子がわかるように
「大造じいさんとガン」の本の中に、
班会議をしている子どもたちの机に録音機を置いて、
班での話し合いをまるまる録音し、それをおこし記録を載せています
「一人読み」もそしてその指導も原則授業の中でさせています
一方、「ごんぎつね」の方は、20年来の国語の仲間の授業記録で
その人は、「一人読み」を原則として宿題としてさせています
ですので「ごんぎつね」の本の山場の部の授業記録でわかりますが、
最初に「一人読み」の確認をさせています(P47 T3)
教師は、授業の前に宿題の「一人読み」に目を通しています
もちろんいきなり「一人読み」ができるわけもなく
最初は授業中に書かせ、書けない子には指導をしています
(「ごんぎつね」の本は持ち上がりのクラスです)
宿題でさせる段階になってからも
必ず目を通して、書けていない子には個別指導を入れたりしています
班会議は意見を持てない子のためにだけあるのではありません
もちろん当初はそういう役割があるのですが
なにより
教師の指導=一人読みの個別指導
子どもの経験=読む力の蓄積
の積み重ねで
意見を持てるようにすることが大切で
それぞれの意見を出し合い深める
あるいは、自分とは違う他の意見を聞くことで新たな視点なりが見えてくる
そのために班会議はあると思います
私が班会議を多用し、もう一方の方が一人読みの宿題を多用するのは
私のもう一人の方のこれまでのクラス規模の違いがあると思います
私ともう一人の方は20年ほど前にある学校で2年間同学年でした
それから私はほぼ30人以上のほぼ大規模校で教員生活を送り、
しかもここ十数年は一年限りのクラスであるのに対し
もう一方の方は、20名程度あるいはそれ以下の単独クラスの、
しかも持ち上がりで教員生活を送っています
その環境というか、条件の違いが
授業スタイルの違いの原因の一つになっていると私は思っています
先生はメールに「問答」と書いていますが
「問答」と「討論」は違います
ある場面は「問答」だし、ある場面は「討論」になっているはずです
混合している時もあります
ただ
基本的には
構造よみは「討論」的です
形象読み主題よみは「問答」的です
それは「構造よみ」と「形象・主題よみ」の性質の違いからきています
「構造よみ」はある意味決着をつける方向で授業が進むのが常です
一方「形象・主題よみ」は、みんなで造り上げる、読み広げる
みんなで深め合う方向で授業が進むからです
ここまでが①に対する回答です
次に②です
私は授業中にノートの時間はとっています。自分で考える時間もとります
「たくさん」かどうかは「たくさん」が比較する言葉ですからわかりません
なにと比較して「たくさん」かがわからないからです
ただ、どちらにせよ授業中だけでは時間はたりないと思います
「残りは宿題」ということにしたり、
「残りは次の時間(他の教科)のチャイムがなって5分間(時には10分)あげるから
そこで書きなさい」のどちらかです。
ただ、基本的に「一人読み」で書き込みができていますから
たりない部分のみを書けばいいわけです
そのためにはノートの工夫が必要です
「ごんぎつね」の本に載せているプリントを使ったり
教材をコピーしたものを貼らせておいたり、、、、
ただ、最近は、授業の記録を取らせるより
授業の気づきや感想、わかったことを文章で書かせることが多いように思います
明治図書「石臼の歌」には昔の私が指導した子どものノートが資料として載っています
まあ、今とはずいぶん違うので、参考にはなりませんが、、、、
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