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2013年8月2日金曜日

「お手紙」 その4

「お手紙」 その4(終結部)

★終結部
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 四日たって、かたつむりくんが、がまくんの家につきました。
そして、かえるくんからのお手紙を、がまくんにわたしました。
お手紙をもらって、がまくんは、とてもよろこびました。
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「四日」も二人は手紙を待っていたのである。その間、今か今かと毎日玄関に二人して座り、楽しい気分で過ごしていたのだろう。逆に言うと「四日」もそういう気分を味わうことができたのである。その原因は「かたつむりくん」である。少し慌て者のかえるくんが、あわてて何気に頼んだのが「かたつむりくん」だったおかげである。

★この「待つ」に関わって、跡上先生は次のように述べている。
同じ「まつ」でも、導入部の「まつ」と終結部の「まつ」では意味が違う。

 がまくんは自分にお手紙が来ることを期待し、毎日それを待っている。しかしながら、お手紙は来「ない」のだ。「ない」お手紙は、がまくんにとっては「ない」どころが、「ない」ことでもってますます大きな意味をもつようになる。
(「ないことにまつわるふしあわせとしあわせ」跡上史郎)

☆上記の跡上先生の文章を受ける形で書くと
がまくんは自分にお手紙が来るこを期待し、毎日(四日間)待っている。そしてお手紙は確実に来るのだ。それどころか、素晴らしい内容で「ある」ことを知っているのだ。お手紙は、がまくんにとっては「ある」どころが、確実に手紙が「ある」こと(存在していること)、そして内容も自分にとって意味が「ある」ことでもってますます「まつ」ことが喜びの意味をもつようになる。(重藤)
と言ったことになるだろうか、、、、。

 蛇足だが、かたつむりくんは四日もたってついたときに二人へ何といったのだろうか?それを想像せずにはいられない。
私には、きっとかたつむりくんは、
「どうだい、はやかったろ」
程度のことを言って、二人を笑わせたように感じるのである(かたつむりくんはもちろん大まじめ)。
そして二人は
「いや~おそかったね~。おかげで四日も楽しめたよ。」
みたいな事を言いそうな雰囲気を持った物語に感じるのだ。

「お手紙をもらって、がまくんは、とてもよろこびました。」
かえるくんからの話で、すでに「しあわせな気持ち」になっていたがまくんだったが、実際に手紙をもらって「とてもよろこびました。」もちろん、それを見ていたかえるくんも喜んだことは想像に難くない。
こうしてハッピーエンドになり、幸せな気持ちのまま、二人は再び冬眠に入るのであろう。
これがこの『ふたりはともだち』のエピローグになっている。

★『お手紙』の季節は?

『ふたりはともだち』の
1『はるがきた』は、文字通り春のエピソードである。
2『おはなし』は、夏のエピソード。
3『なくしたボタン』は、「大きなくさはら」「せのたかいくさのあいだを」「すずめ」「あらいぐま」などの表現から夏。
4『すいえい』は夏。
という組み立てになっている。
そして最後の『お手紙』は、文からは直接は季節がわからない。がまくんが物思いにふける点からは「物思いの秋」を連想はさせる。絵を他のエピソードと見比べてみると、花や草の背丈が低いように感じられる。秋と言いたいところだが確証はない。しかしこの本の組み立ての流れからは(冬眠の目覚めから、冬眠の前までの話)、秋だと想像はできる。


★終わりに
 これまで4回に渡って、この「お手紙」を長々と書いてきた。
今回は、書きながら、書いた分をその都度このブログにアップするという方法をとった。そのために、誤字脱字はもとより(誤字脱字等は気づいた時点で修正しているが、、、)、肝心の「読み」においても、少しねじれが生じている部分があるかもしれない。また、書きたりなかった部分もある。
それは、このような聞き方(分析風とでも言うのか?)が初めてだったこともある。
 なにより、書き始めた時に見ていた景色と、最後に見えた景色が少しだけ違う景色のように感じている。そのことについては、いつもの様に「叩き台として」という言い訳を付け加えておきたい。

2013年8月1日木曜日

「お手紙」その3

「お手紙」その3(山場の部)

★ここまでをまとめてみると
 がまくんは、玄関に座って自分から手紙を出してみるなどはせずひたすら待つだけで、しかも手紙がこないことにただ悲しみあげく怒っている。甘えん坊で、幼い人物像が読み取れる。しかも、よくよく考えると毎朝手紙を待つ時間を決めているというのは、そうとう変わり者だと言えそうである。どちらかと言えば偏屈な感じもある。
一方のかえるくんは、そんな悲しそうながまくんをほっとけない、優しいとともに少しお節介で、そそっかしい感じがする人物像である。そして、二人とも幼く、少し愚かさもある。

さて、いよいよ山場の部である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「かえるくん、どうして、きみ、ずっとまどの外を見ているの。」
がまくんがたずねました。
「だって、今、ぼく、お手紙をまっているんだもの。」
かえるくんが言いました。
「でも、来やしないよ。」
がまくんが言いました。
「きっと来るよ。」
かえるくんが言いました。
「だって、ぼくが、きみにお手紙を出したんだもの。」
「きみが。」
がまくんが言いました。
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★謎 なぜかえるくんはお手紙を書いたことを話してしまったのか?
 さすがのがまくんも、かえるくんが何度も窓の外を見ていることに気づいてしまう。それどころかかえるくんは、「だって、ぼくが、きみにお手紙を出したんだもの。」とあっさりと自分が手紙を出したことをばらしてしまう。いかにもそそっかしいかえるくんらしい行動とも言える。幼さだとも言える。

しかし、ただそそっかしい、幼いということとは少し違うような感じもする。どちらかと言えば、教えたくてしかたない。出し惜しみしながら、焦らしている、そしてそれを楽しんでいるようにも読めるからである。それは、この場面の前、展開部の二人のやりとりから続いているようにも思える。「お手紙をまっているんだもの。」「お手紙を出したんだもの。」という言い方からも、しかたなく言っているようでもなく、思わず漏らしたようでもない。どちらかと言えばそれでを楽しんでいるように感じられる。ひょっとすると、話したくてしかたないのかもしれないと思える。黙っていることを我慢できないように感じられるのである。

 もちろん、がまくんには、自分が手紙を出したことを黙っていて、よりサプライズ的にする方が、よりがまくんを喜ばせることができる。しかし、はやくがまくんにそのことを、自分が手紙を出したことを言いたくてしかたない。
これは、前者の方が、より優しいとか、思いやりがあると言いたくなりそうだが、しかし、そうではないのだろう。先にかえるくんの人物像を「お節介」と書いた。「お節介」と「親切」(この場合「思いやり」と言い換えてもいいが)は、やはり紙一重なのだ。それは、ある絶対的な基準があるわけではなく、「する側」と「される側」の微妙な関係の中でどちらにもなり得るものなのだと言える。二人の関係性の中に基準(?)があるのだと言える。もちろん二人のキャラクターにも関係していることは言うもでもない。そしてなにより、その「お節介」がもたらした結果、それをされた側の気持ちが決定することなのだと言える。
だとすると、この後の二人の気持ち、とりわけがまくんの気持ちが快なのか不快なのかを考えると、かえるくんの行為は、決してお節介ではなかったと言えそうである。前の場面から続き結末まで続く二人のやりとり、そこからは、二人の関係性、名(迷)コンビぶりをこそ読みとるべきことだと言える。それがこの物語のテーマの一つだと言えそうである。(「お節介」=「悪」だと言っているわけではない。)

 さてこの場面、お手紙を待っていたのはがまくんである。しかし、この場面でお手紙を待っているのはかえるくんになっている。そこもまた、この物語の面白さである。

続きをみてみよう。
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「お手紙に、なんて書いたの。」
 かえるくんが言いました。
「ぼくは、こう書いたんだ。ぼくは、きみがぼくの親友であることを、うれしく思っています。きみの親友、かえる。」
「ああ。」
がまくんが言いました。
「とてもいいお手紙だ。」
それから、ふたりは、げんかんに出て、お手紙の来るのをまっていました。
 ふたりとも、とてもしあわせな気もちで、そこにすわっていました。
長いことまっていました。
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 いよいよクライマックス場面である。ここでは、手紙を出したことだけでなく、その文面まで教えてしまっている。それはなぜか?これも、先に述べたとことと同じなのだろう。

★親友の謎を考える(「親友」という言葉に込められたかえるくんの思い)
★手紙の内容(文面)を考えてみる。
「ぼくは、きみがぼくの親友であることを、うれしく思っています。きみの親友、かえる。」
これが文面である。
この手紙は、何を言いたいのか?
「親友」だと言うことを伝えたいわけではない。「うれしく」思っていることであろう。(序列的に)
それは、「ぼくは、君の親友です。」とどう違うかを読み比べてみることではっきりする。がまくんのことではなく、かえるくんは自分自身のことを、自分自身の思いを言いたいのである。
「だれもぼくにおてがみなんかくれたことがないんだ。」(冒頭場面)、「ぼくにてがみをくれる人なんているとはおもえないよ。」(これは手紙を書いた後のセリフであるが、友達であるかえるくんは理解していた。)の答えとして「君には、ぼくがいるじゃないか」だから元気出せ、ではなく、「ぼくには、きみがいるんだ」それが「うれしい」ありがとうと言っているのである。がまくんがいてくれてうれしい。がまくんがぼくの親友でよかった。と言ったことだろう。かえるくんの優しさが感じられる文面になっている。
 かえるくんは、がまくんのこと(思い)を本当によく理解していることを読み取ることができる。だから、がまくんは「ああ」と感嘆の声を思わずあげたと言える。だから、「とてもいいてがみだ。」と素直な気持ち(感想)を言えたのだろう。

★二人の関係について
 二人の関係は、どちらかというと、ドジで変わり者のがまくんを親切にお世話するかえるくん、といった構図である。その関係の中で、がまくんは多少劣等感を持っている(それがスネた言動になっている)と思われる。それが、冒頭のがまくんの行動(玄関前にわかりやすい表情で座っている。かえるくんがなだめても、ふてくされたような返事をくり返す)に表れている。
しかし、先の文面からするとかえるくんにとってがまくんは、けっしてお世話してあげる人ではなく、なくてはならない唯一無二の存在だということがわかる。それが「親友」という少し改まった言葉だと言える。 これは、かえるくんの本音なのだろうか?という疑問がわいてくる。
「かえるくんは、おおいそぎでいえへかえりました。えんぴつとかみをみつけました。かみになにかかきました。かみをふうとうにいれました。」からは、熟考した様子は見受けられない。思ったことを、言い換えると常々思っていたことを書いたようにみえる。

★『ふたりはともだち』から
 実はこの「お手紙」という物語は、『ふたりはともだち』をいう本の5つのエピソードの最後に納められているエピソードである。(私の手元にあるのは「文化出版局 ミセスこどもの本」 アーノルド・ロベール作 三木 卓訳『ふたりはともだち』 発行所学校法人 文化学園 文化出版局)
 1つ目のエピソード『はるがきた』では、4月になっても冬眠から起きないがまくんに春のすばらしさを伝える(二人で感じて喜ぶ)ために、がまくんをなんとか起こそうとする話。
 続く2つ目のエピソード『おはなし』は、体調を崩したかえるくんが、がまくんに何かお話をして欲しいと頼む。そこでがまくんは、あれこれとお話を考えるのだがどうにも思い浮かばず、最後は壁に頭をガンガン打ち付けてまで考えるだが、結局思いつかない。それどころか、頭を強く打ったためにがまくんが体調不良になってしまう。そこでこんどはかえるくんが、がまくんにお話をしてあげると申し出、今自分のために悪戦苦闘するがまくんの姿を話す。しかし、がまくんは途中で眠ってしまうのである、、、。
 3つ目『なくしたボタン』、4つ目『すいえい』の内容は省略するが、どれもちょっと間抜けでドジながまくんと、そんながまくんを優しく機転が利くかえるくんがお世話するという、なんともほのぼのとしたお話が続くのである。
 しかし、決してかえるくんはがまくんに対してお世話している風ではない(私ははそう読めた)。がまくんが好きでたまらない感情が、全編から伝わってくるのである。そしてその最後のお話として『おてがみ』が綴られているのである。
 それを理解すると、かえるくんががまくんに出した「お手紙」の文面は、決して嘘や誇張、同情などというものではないことが分かる。かえるくんにとって、がまくんは大切な「唯一無二の存在」=「友達」なのである。
★なぜ教えてしまったのか再考
 そう考えると、「なぜ教えてしまったのか?」という謎の答えもみえてくる。「伝えたくてしかなたかった」のだろう。言いたく言いたくてしかたなかったのであろう。そう考えるとすっきりとすると私には思えるのだが、、、、。そして、それに気づいていないのは、がまくんだったのだろう。
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 それから、ふたりは、げんかんに出て、お手紙の来るのをまっていました。
 ふたりとも、とてもしあわせな気もちで、そこにすわっていました。
長いことまっていました。
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「ふたりとも、とてもしあわせな気もちで、そこにすわっていました。」は
「ふたりともかなしいきぶんでげんかんのまえにこしをおろしていました。」(冒頭部分)
に対応している文である。
★「ふたりとも」の謎
 なぜ、「ふたりとも」なのか? なぜ「かえるくん」もしあわせな気持ちになったのか?がここの謎である。
これまで読み取ってきたことから、4つのことが考えられる。

 まず1つ目、なによりかえるくんが喜んでくれたからであろう。そして2つ目、かえるくんは自分の思いを伝えられたから。だから「ふたりとも、とてもしあわせな気持ち」になれたのだろう。
 3つ目は、自分の思い(手紙の内容=がまくん親友でいてくれたことがうれしい)をがまくんがうれしく思ってくれた=受け入れてくれた=がまくんも同じ気持ちだ=気づいてくれたからであると思われる。
 最後の4つ目は、その手紙がもうすぐ来ることである。それを二人で一緒に、待てるからなのだろう。
 かえるくんは、大好きながまくんとなんでも一緒にしたいのである。そして今待っている「お手紙」は、二人をうれしい気持ちにしてくれることが分かっているのである。うれしい気分で一緒に「まだかな、まだかな」と待っていられるのである。
 
 実はかえるくんは、他のエピソードの中でも、いつもがまくんと一緒に行動しよう、いっしょに楽しもうとしていることがわかる。下の場面は、『ふたりはともだち』の最初のエピソード『はるがきた』の一節である
4月になっても冬眠から起きてこないがまくんを、かえるくんが起こそうとする場面である。

(前略)
「つまり、ぼくたちのあたらしい一ねんがまたはじまったってことなんだ。がまくん。そのことをおもってごらんよ。」
かえるくんがいいました。
ぼくたち、くさはらをとびはねながらとおりぬけられるよ。森をかけぬけることもできるし、川でおよぐこともできるんだぜ。ばんにはいまいるげんかんのまえにいっしょにすわっておほしさまのかずをかぞえるんだ。」
「かえるくん、きみがかぞえればいいさ。」がまくんがいいました。
(中略)
それじゃ それまで、ぼく さびしいよ。」がまくんはへんじをしませんでした。もうねむっていたのです。
(後略)

 上記からも、かえるくんは、何でもがまくんと一緒にしたがっていることがわかる。それはがまくんが大好きで、その大好きながまくんと一緒にした方が楽しいと言うことをわかっているからであろう。
「それじゃ それまで、ぼく さびいよ。」
ここからは、かえるくんにとって、いかにがまくんが大切な存在である「唯一無二の存在=親友」であるかがわかる。だから、一見「お節介」に見える行為も、そうではなく本当友達として助けたいと言った気持ちからなのだということがわかる。そこには、二人の関係が、決して「縦位置の関係」ではなく、「横並びの関係」であることがわかる。
そして、どちらかと言えば、相手のことが好きだと、相手が唯一無二の存在だと終始理解しているのはかえるくんなのである。『ふたりはともだち』のエピソードからもそのことは読み取ることができるし、この『お手紙』からもわかる。分かっていないのは、というか無自覚なのは実はがまくんの方なのである。
がまくんは、この『お手紙』というエピソードの中のかえるくんからの「お手紙」の文面で、ようやくそのことに気づいたのである。自分にとってもかえるくんは唯一無二の存在なのだと。

★『ふたりはともだち』の中での『お手紙』
A『ふたりはともだち』
の中の『はるがきた』
そういう意味で、この『お手紙』というエピソードは、『ふたりはともだち』の最後に納められており、その『お手紙』の最後の場面でようやくがまくんはかえるくんが親友だと気づいたという仕掛けになっているのである。『お手紙』が最後のエピソードになっているのは、そういう意味なのだということがわかる。この場面の挿絵ではじめて二人は肩を組んでいるのは、そういう意味なのだろう。(肩をくんでいる絵は『ふたりはともだち』の中で、2カ所である。
 Aは、1番目のエピソード『はるがきた』で、かえるくんが無理矢理がまくんを起こそうと、玄関まで連れてきている絵。この絵では、肩に手を回しているのはかえるくんだけ、がまくんは眠そうな目をこすっている、迷惑そうにしている絵で
B『ふたりはともだち』
の中の『お手紙』
ある。

Bはこの最後場面の絵である。①二人はお互いに腕を肩に回している。②表情はにこやかである。③かえるくんは何かを話しているようにも見える。④それはかえるくんの肩を組んでな
い方の手のしぐさからも想像できる。

C『ふたりはともだち』
の中の『お手紙』
★Cの絵について
 ところで、『お手紙』の冒頭「ふたりともかなしいきぶんでげんかんのまえにこしをおろしていました。」の絵Cは、二人でお手紙を待っている絵と同じように見えるが、①肩をくんではいない。それぞれ両手の指を体の前で所在なさげに組んでいる(?)。②表情が悲しそうである。③口をへの字に結んでいる。④二人の心情を表現するかのようにバックの花などの色が(二人の絵も色が)薄い。などの違いがある。絵本である以上、子どもたちには、これらの絵からも読み取らせたいものである。

 こうして『ふたりはともだち』という本の中で、最後の最後に『ふたりはともだち』になったことがわかる。

なんともよくできた本だと私には思える。

※お借りした絵は、
文化出版局 ミセスこどもの本 アーノルド・ロベール作 三木 卓訳『ふたりはともだち』 発行所学校法人 文化学園 文化出版局 
からです。

2013年7月30日火曜日

「お手紙」 その2

「お手紙」その2(展開部)

 さて、展開部である。
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 かえるくんは、大いそぎで家へ帰りました。えんぴつと紙を見つけました。紙に何か書きました。紙をふうとうに入れました。ふうとうにこう書きました。
「がまがえるくんへ」
 かえるくんは、家からとび出しました。知り合いのかたつむりくんに会いました。
「かたつむりくん。」
かえるくんが言いました。
「おねがいだけど、このお手紙をがまくんの家へもっていって、ゆうびんうけに入れてきてくれないかい。」
「まかせてくれよ。」
かたつむりくんが言いました。
「すぐやるぜ」
それから、かえるくんは、がまくんの家へもどりました。
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★伏線
 この場面では、2つの謎がクライマックス場面への伏線となっていることがわかる。
 1つは、「お手紙」の中身である。
「かえるくんは、おおいそぎで・・・」から「・・・~ました。」「ました。」が続く書かれ方からは、かえるくんが、迷ったり、悩んだり、考えたりせずに、素早く手紙を書いているように感じられる。かえるくんのがまくんに対する思い、人のよさが読み取れる。そして封筒の表に「がまがえるくんへ」と書く。ここは読み手である読者へ、手紙の内容に興味を持たせているところである。

 2つ目の謎は、なぜかたつむりくんだったのか?ということである。謎であるとともに、面白いところでもある。
かえるくんが、こんなにも急いで帰り、あわてて手紙を書いた理由は、一刻も速くがまくんにお手紙を届け、悲しんでいたがまくんに、喜んでもらいたかったからにほかならない。
ところが、かえるくんが手紙を託した相手は、かたつむりくんであった。かたつむりと言えば、その進む速さはゆっくりである。この「ゆっくり」がクライマックスの伏線になってくる。
まず、自分でがまくんに届けるという方法もあったはずである。もちろん、それは、がまくんが言うところの「お手紙」は、単に封筒に入った手紙ということではなく、郵便として、差出人(今回はかえるくん)がいて、配達人(かたつむりくん)が運んで、それを受け取るという(第三者の介入・公的な社会的な制度・大人社会)ことだということをかえるくんも分かっていたからに他ならない。
かたつむりくんに頼んだのは、偶然だったのか、必然だったのか?
もし偶然なら後の展開を考えると、ものすごく幸運だったと言える。もし最初から「かたつむりくん」に頼むことを考えていたとしたら、後の展開はかたつむりくんの意図通りだと言える。「知り合いのかたつむりくんに会いました。」であるから、偶然出会ったとも読めるし、訪ねて会ったとも読める。流れ的には、偶然に出会ったと読める。かえるくんが家を出て最初に出会ったのが、かたつむくんだったいうことだろう。
それにしてもかえるくんは、かたつむりくんが遅いということを考えなかったのだろうか。それは、かたつむりくんがゆっくりだと言うことに、気づかないくらい一生懸命であったのだろうと考えられる。ここから読み取れるかえるくんの人物像は、そそっかしく、あわてものもだと言える。もちろんそれは、がまくんを一刻も速く喜ばせたいということであるから、友達思いであり、優しいということの裏返しでもある。なんとなくほのぼのとした人の良さも感じられる。この人の良さ、そそっかしさが、二人で手紙を待つという、何とも言えない喜びの時間をもたらすことになるのである。
 そして、それを受け取るかたつむりくんのセリフ「すぐやるぜ」も、なんとも間が抜けているというか、面白いセリフである。

かえるくんのそそっかしさは、次の場面でも読み取ることができる。
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 がまくんは、ベッドでお昼ねをしていました。
「がまくん。」
かえるくんが言いました。
「きみ、おきてさ、お手紙が来るのを、もうちょっとまってみたらいいと思うな。」
「いやだよ。」
がまくんが言いました。
「ぼく、もうまっているの、あきあきしたよ。」
 かえるくんは、まどからゆうびんうけを見ました。かたつむりくんは、まだやって来ません。
「がまくん。」
かえるくんが言いました。
「ひょっとして、だれかが、きみにお手紙をくれるかもしれないだろう。」
「そんなこと、あるものかい。」
がまくんが言いました。
「ぼくにお手紙をくれる人なんて、いるとは思えないよ。」
 かえるくんは、まどからのぞきました。
 かたつむりくんは、まだやって来ません。
「でもね、がまくん。」
かえるくんが言いました。
「きょうは、だれかが、きみにお手紙くれるかもしれないよ。」
「ばからしいこと、言うなよ。」
がまくんが言いました。
「今まで、だれも、お手紙くれなかったんだぜ。きょうだって同じだろうよ。」
 かえるくんは、まどからのぞきました。
 かたつむりくんは、まだやって来ません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 がまくんをびっくりさせるのであれば、黙っておいて驚かせるのが効果的でありセオリーである。しかし、かえるくんは、だまって待つということができず、がまくんに期待させようとするのである。かえるくんは、がまくんが喜ぶ姿を見たい気持ちを抑えられないのだろう。
ここからは、かえるくんのそそっかしさとともに幼さ、幼さから来るであろう(言い方は悪いが)ある種の愚かさと同時に人の良さも感じられる。

 一方で、がまくんは、ふてくされているままである。いい加減気づいてもよさそうなものである。あるいは、「なんでそんなこと言うの?なんでそう言えるの?」と問いただしてもよさそうである。がまくんの悲しさ、怒りがそれほど大きいとも言える。またここにも幼さが感じられるし、幼さから来る愚かさも感じられる。

 かえるくんは、まどからのぞきました。かたつむりくんは、まだやって来ません。そして二人の3回のやりとりの間に、かえるくんは、3回もまどのそとを見ている。かたつむりくんが来るのを今か今かと待っているかえるくんのはやる気持ちがわかるところである。
他の文末が「ました。」であるのに対して、「まだやって来ません。」となっている。「まだやって来ませんでした。」ではない。ここだけが断定的で言い切りになっているところにも着目したいところである。

 この場面の二人のやりとりは、大変楽しく、おもしろい場面になっている。この場面、読み手によって
「あ~ばれちゃうよ~」「なんでそんなこと言うんだよ~」あるいは「教えてあげればいいのに~」
「なんでがまくんは気づかないんだ~」
「カタツムリ君遅いよ~」「だからカタツムリ君なんかにたのむからだよ~」
「この二人、なんだかおもしろ~い。」
はらはらする子もいれば、笑ってしまう子もいるだろう。中にはイライラする子もいるかもしれない。子どもによって、様々な反応が予想される。
二人のキャラクターと、そのぶつかりそのものが面白いところである。名(迷)コンビと言える。
それと同時に

「がまくん。」(3回目だけ「でもね、がまくん。」)
かえるくんが言いました。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」(強い拒否)
がまくんが言いました。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」(理由というか、、、) 
 かえるくんは、まどからゆうびんうけを見ました。かたつむりくんは、まだやって来ません。

パターンの繰り返しであり、その繰り返しの面白さ(書かれ方・文体)などが面白さの要因となっている。

2013年7月26日金曜日

「お手紙」その1

「お手紙」その1 謎を追究する面白さを

「お手紙」は謎の多い物語である。この物語はちょっと変わった始まり方をしている。
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がまくんは、げんかんの前に、すわっていました。
かえるくんがやって来て、言いました。
「どうしたんだい、がまがえるくん。きみ、かなしそうだね。」
「うん、そうなんだ。」
がまくんが言いました。
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★これは、「お手紙」の冒頭部分の一節である。
 まず「がまくんは、げんかんの前に、すわっていました。」からして謎である。玄関の前に座るということは、あまり見かけない行為である。なぜわざわざ玄関の前に、座っていたのか?
しかも、「悲しそうな顔」をしているのである。やってきたかえるくんはあきらかに知り合い、いや友達。普通なら、「おはよう・こんにちは」とか「やあ」とかお互い挨拶をかけ合いそうなものである。しかし、やってきたかえるくんはいきなり「どうしたんだい」と問いかけている。それほど悲しそうな顔=雰囲気を、がまくんは醸し出していたと考えられる。言いかえると、がま君は、誰にでもわかりやすく、もっと言うと「これみよがし」に自分の悲しさを訴えていたのである。
「うん、そうなんだ。」かえるくんの問いかけにがまくんは答える。やはり誰かに聞いて欲しかったのであろう、即答しているようにみえる。普通なら無言の場面である。このやりとりから読めるがまくんの人物像は以下のようなものであろう。

幼い。(がまくんの見え見えの雰囲気は、いかにも幼い子どもがとりそうな行為である。)
それは「甘えん坊」だとも言える。
あるいは、わがまま。(これは、年齢的なものなのか、性格的なものなのかは判別できない)
そうとう深刻な出来事ががまくんの身にふりかかった。(謎。読者を引き込むしかけになっている)

この他、いくつかの疑問や謎もある。
果たしてがまくんは、かえるくんが視界に入る前から悲しそうな顔をしていたのか?
もしそうだったとしたら、他の人はがまくんに声をかけたりしなかったのか?それはなぜか?
かえるくんが視界に入ったので、悲しそうな顔をしたとすると、それはなぜか?

もし③であるとすると、そこからがまくんの人物像や二人の関係が読めてくることになる。
また、これは絵本でる。絵から読めるがまくんの人物像もある。また「がまがえる」であるから、あまり動かない、動きが遅いところから、のっそりした感じ、ぼーっとした感じなどがわかる。(くわしくは省略)

★さて冒頭部分をさらに読み進めてみよう
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「今、一日のうちのかなしい時なんだ。つまり、お手紙をまつ時間なんだ。そうなると、いつもぼく、とてもふしあわせな気もちになるんだよ。」
「そりゃ、どういうわけ。」
かえるくんがたずねました。
「だって、ぼく、お手紙、もらったことないんだもの。」
がまくんが言いました。
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 なんとも理屈っぽい言い回しである。また「かなしい時なんだ。」「つまり」「時間なんだ。」「そうなると」などという言い方を、話し方を、がま君は普段からしているのだろうか?
このセリフから、がまくんは、理屈っぽく、少し変わった子(子だとして)だと言えそうである。また、「ふしあわせな気もち」からは、そういう言葉を使うことへのあこがれというか、ちょっと背伸びした感じも受ける。普通は、友達との会話では使わない言葉であることは間違いない。それは「もらったことないんだもの。」という言い方の幼さかと合わせて考えるといっそう浮き立ってくるように思う。また、この言い方からは、少しひがみっぽい感じがする。

さて、続きを進めよう。
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「いちどもかい。」
かえるくんがたずねました。
「ああ。いちども。」
がまくんが言いました。
だれも、ぼくにお手紙なんかくれたことがないんだ。毎日、ぼくのゆうびんうけは、空っぽさ。お手紙をまっているときがかなしいのは、そのためなのさ。
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 なんと、「だれも、ぼくにお手紙なんかくれたことがないん」ことが悲しさの原因だということである。読み手からすると、少しばかり大げさすぎやしないかという感じもする。スネている感じである。手紙をもらったことがないというだけで、そんなに不幸せな気持ちになるのは、少し大げさではないかという違和感である。
ここも謎だらけである。
なぜ手紙がこないことがそんなに悲しいのか?(なぜそんなにお手紙が欲しいのか?)
なぜ自分から出そうとは思わなかったのか?出さなかったのか?あるいは出したけど返事がなかったのか?
そもそも、誰から、どんな手紙がくると思っているのか?きて欲しいのか?
この読み手に湧く「違和感」「謎」は、この物語ではとても重要な読みへとつながるのではないかと感じる。
これらはどう考えればいいのか?そして、そこから読める人物像は、、、、。

 それにしても、がま君にとっては、この悲しさは、がまくんにとってそうとうな悲しさのようでる。それは「ああ、いちども。」「お手紙なんか」「空っぽさ」などの拗ねたような言い方から容易に想像できる。
また、がま君は、そうとう甘えん坊でさみしがりやなんだろうと感じる。しかし、どこか憎めない感じ、助けてあげたくなる感じも私には感じられる。

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 ふたりとも、かなしい気分で、げんかんの前にこしを下ろしていました。
すると、かえるくんが言いました。
「ぼく、もう家へ帰らなくっちゃ、がまくん。しなくちゃいけないことが、あるんだ。」
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そんながまくんに、かえるくんは同情している。かえるくんは、いいやつなのだろう。
「いちどもかい」と
かえるくんが悲しい気分になったのは
がまくんにお手紙がこないことなのか?
お手紙がこなくて悲しんでいるがまくんのことを思ってなのか?
そんながま君の気持ちを知らなかったこと、気づいてやれなかったことなのか?
自分が、がま君に一度も手紙を出さなかった出したことがなかったことへの後悔からなのか?
の、どれなのだろうか?いくつかの思いが重なっているのだろう。
かえるくんは、玄関に座っている悲しそうな顔のがまくんを見てすぐに「どうしたんだい。」と心配している。そして、その理由を聞きながら、かえるくんもまた「かなしい気分」になっていく。そんな友達思いのかえるくんであるが、この場面では、けっして励まそうとはしていない。なぜなのだろうか?「いちどもかい。」と尋ねているところから、かえるくんはお手紙をもらったことがあったのであろう。だからなのかもしれない。あるいはもらったとこがなかったとして、自分はそれを考えたことも悲しんだこともなかったのであろう。
そう考えると上記した③④の思いがあったことは確実だと言えそうである。あるいは、「いちどもかい」というかえるくんの何気ない言葉が、さらにがま君を傷つけたことも気づいていたのかもしれない、、、。

そのかえるくんは、この場面での最後のセリフ
「ぼく、もう家へ帰らなくっちゃ、がまくん。しなくちゃいけないことが、あるんだ。」
と言う。まず前半を普通の言い方に直すと「がまくん、ぼく、もう家へ帰らなくっちゃ。」である。比較すると、急に思いついたような感じである。そして、「どうしても帰りたい、帰らなければならない」ことを思いだしたという感じがする。それは「しなくちゃならないこと」があるからとなる。「することがある」あるいは「したいことがある」と比較すると、「どうしても、なにがなんでも」といった思いが込められている。後で出てくるのだが、かえるくんは、家へ帰ってがまくんにお手紙を書こうと思いついたのである。だから「どうしても」であり「なにがなんでも」なのだろう。ここから物語は、結末へ向けて展開していくことになる。
★ここからわかるかえるくんの人物像は、
人がいい。優しい。
思いついたらじっとしていられない性格。
がまくんのことが大好き。友達おもい。
といった感じであろう。


※1学期にサークルで提案したものを元に、みんなで検討したこと、そして跡上先生のアドバイスを受け、もう一度「お手紙」について考えみたいと思いました。そこで、これまでとは書き方を変えて、少しずつブログにアップしていきたいと思います。

2012年6月19日火曜日

例会報告 帰り道に考えたこと


参加13名。
はじまりは、4
こりゃあ~どうしたもんだと思いながらのスタートでしたが
最終的には13名。
まあ、最近はこのくらいか、、、



本日の提案は
「低学年の実践を高学年の実践につなげる」
「教材研究を授業につなげる」
2本立て。

1本目のテーマは
分かりやすく言うと
「高学年での学習につながる低学年の学習」と
言った方がわかりよいか
実はここのところ、
本サークルの課題を
「教材研究から、授業化へ」と言った
テーマを持って挑んでいたのですが
それが2つ目のテーマですね。

テーマ1の本日の提案は以下の通り
①低学年では、場面ごとに指導するのだが
その際に、「構造よみ的な意図」を入れていく
②言葉のイメージを客観的なイメージ・形象に高めていく
③表現技法を実態に合わせて指導していく・・・

①はたとえば最初の場面(普通「1場面」などと授業では呼ばれている)
スイミーでいうと次の場面
広い海のどこかに、小さな魚のきょうだいたちが、楽しくくらしていた。 みんな赤いのに、1ぴきだけは、からす貝よりも真っ黒。およぐのは、だれよりもはやかった。 名まえはスイミー。
この場面は「構造よみ」でいうところの「導入部」にあたる
そこで
「今日は1の場面を勉強するよ。じゃあ、スイミーがどんな魚かわかる言葉に線を引いてごらん」(時・場は省略したとする。)
と言って発表させる。
すると
「カラス貝よりも真っ黒」
「およぐのは、だれよりもはやかった」
2つが出される。
それをみんなで読んでいった後
「良く読めたね~。人物を読むときは、見た目(様子)や特技(特徴)などに気を付けて読んでいくことが大事なんだね。」
などと言いながら人物形象の読み方の基礎を指導していく。
同様に、「小さな兄弟」を読む。
必要なら「事件設定」についても発問で線引きさせたりして読み取って行く。
そして1場面が読み終わったら
「実はね、物語の1の場面にはね、このように物語の「紹介(時・場・人物・事件設定)」が書かれているんだよ。だから、1の場面では、いつもどんな紹介が書かれているかを読む事が大事なんだよ。」
と言ったことを説明していくのである。
(必要なら「桃太郎」などの導入部を例にしていくとよい)


こうすることで、高学年の「構造よみ」や「導入部の形象よみ」につなげていくことができる。
また、例えば「場」を読むだとすると、
「こも物語の場所がわかるところに線をひいてごらん?」
と問へば、
「広い海のどこか」
が出される。

「海ってどういうところかな?」と問い
子どもたちに「海」について知っていること、思っていることなどを発表させていく。
これは低学年の授業ではよく見かけるが、
子どもの私的な思いにとどまらせておくのでなく
子どもの発表を教師の方で、
意図的にプラス面とマイナス面とに分け、
海のイメージ・形象等を作りあげていくのである。
その際、海という感じの中に母という漢字があることに気付かせ
「生命の源」的な海の形象を知識として付け加えたりする
そのことで、私的な海のイメージを、客観的な文学の文脈の中での海の形象の入り口へと導くことができると考える。
これが②の提起である。(③は省略)

あれ~、本日の提案を説明していたら、
「帰り道に考えたこと」
=本日提案したスイミーのテーマを「発展・掘り下げる読みのアイデア」
だったんだけどを忘れてしまった。(笑)




2012年6月11日月曜日

絵本を読むということ(スイミー)

本日月曜日は、自分の学校の校内研(大研)の講師ということで
あれこれ準備をしました
といっても例の如く一夜漬
おまけに日曜日は夜中に「スペインVSイタリア」
これを見ずしてサッカーフリークは名乗れませんので
それを見てからということに、、、
朝5時までかかってしまいました
いやはや、、、、
それにしてもイニエスタ
キレッキレでしたね~
私一押しのスペイン
ちょっとイヤな展開ですね


ちなみに教材は2年生「スイミー」
どういう資料を用意しようかと考えた末
「スイミーは、絵本を使うのが必要だ」というのが
当サークルの以前の結論でしたから
この際ということもあり、
1つ目の資料として「絵本」について書いてみました。(以下参照)
もう一つの資料は「本時」を技法で読むとどうなるかというもの





「絵本」教材を読むと言うことについて
校内研資料
★「絵本」教材を授業するときに
絵本は「絵」の「本」という意味である。絵本の「絵」は、いわゆる「挿絵」ではない。テキストと絵では、どちらかというと絵が主体とも言える(もちろん絵本によるのだが)。だとすると、他の(絵本以外の)文学作品とは違って、テキストだけではなく、その「絵」も「読む」必要がある。それは近年大人も絵本を楽しむという傾向が増している現状では、なおさらである。
よって、絵本教材を指導する場合、教材研究にあたっては、教科書だけでなく、①元本の絵本にもあたってみる、②絵についても考察しておく、の2点が必要になってくる。

★スイミーとレオ=レオニ
特に「スイミー」の作家は下記にある通り、デザイナー出身で画家でもある。また、谷川俊太郎は、雑誌に「かれ(レオニ)は、自分を表現したいから絵本を描くという人ではなく、むしろグラフィックデザイン的な感覚で絵本制作をしていたのだと思います。絵の方から発想してテキストを描くというところもあったのではないでしょうか。」と述べている。
レオ・レオニ…1910年オランダ、アムステルダム生まれ。15才でイタリアへ移住。39年ナチスのユダヤ人迫害により、一家でアメリカへ亡命。グラフィックデザイナー、画家、彫刻家として活躍、50才で商業デザイナーを引退、絵本作家に転身。

★「スイミー」教科書と絵本の違い
 教科書  スイミー    
絵本   スイミー ちいさな かしこい さかなの はなし

P4647
テキストは教科書も絵本も同じ。絵は教科書より絵本の方が絵が広い。教科書の絵では、スイミーが群れの中心にいるように描かれているが、絵本ではそうではない。
※絵から読めること…魚たちがおのおのの方向を向いているということ。間隔も、密度も均一ではない。
 スイミーの黒い色が目立つ。というか異質であることがハッキリとわかる。
P48 
教科書  ある日、おそろしいまぐろが、、、
絵本   ところが あるひ おそろしいまぐろが
絵本では、教科書P48のテキストだけで2Pを構成。絵は教科書のP4849の絵と同じ。
※絵から読めること…兄弟たちがバラバラに逃げているが、それでもスイミーだけは魚の視界の外、違う方向(下向き)に逃げているようにも見える。そして多くの兄弟たちは同一方向へ逃げているように見える。

P49  「スイミーはおよいだ、くらい海のそこを。こわかった。さびしかった。とてもかなしかった。」教科書では、P48 と同じ一場面の絵(まぐろ)の中に書かれている。
絵本では、色彩のない(?)誰もいない、なにもない海のかたすみにスイミーがたった一匹泳いでいる絵の中に書かれている。
※この場面での教科書と絵本の違いから考えられるストリーへの影響
絵本では絵とページ数によって、
①スイミーの孤独が絵で強調されている。
②時間的な経過(孤独の時間がかなりあったと考えられる)
※絵から読めること…ここでもスイミーが中心に描かれて折らず、あくまでも海の主体とみえる。その海の中も、色も他のページの海の色と違う。色がないとも言える。他の生き物もまったく描かれていない。さびしい様子。

P5051
教科書では2Pで書かれているテキストは、絵本では、「くらげ」「いせえび」「見たこともない魚たち」「こんぶやわかめのはなし」「うなぎ」「いそぎんちゃく」とそれぞれに2Pを当て合計12Pにわたって、それぞれの生き物の絵が描かれている。教科書の絵は、最後の「いそぎんちゃく」のページのもの。
文章的には、教科書では「くらげ。」と書かれているが、絵本ではそれぞれ「くらげ、、、、」「いせえび、、、」と「、、、、」で書かれ、最後の「いそぎんちゃく。」だけ「。」になっている。
※絵から読めること
①一つ一つの生き物の行き来とした様。その面白さ、きれいさ、神秘、、、=海の素晴らしさ。美しさ。
※教科書と絵本のちがい
①一つ一つの生き物の絵がとてもユニークに描かれており、海の中の楽しさや不思議、様々な生き物が生き生きとして生きているということが強調されている。

P5253(本時)
教科書では一つの場面として見えるこの場面も、絵本では2つに分かれている。P52P53は別の場面である。
教科書の絵は、最初の場面の絵である。絵本では、岩陰から出てきてスイミーについて行く様子の絵が描かれていて
「スイミーはかんがえた。いろいろかんがえた。うんとかんがえた。それからとつぜんスイミーは、さけんだ。「そうだ!」「みんないっしょにおよぐんだ。うみでいちばんおおきなさかなのふりして!」と文章が書かれている。
教科書「そのとき、岩かげにスイミーはみつけたスイミーのとそっくりの、小さな魚のきょうだいたち。」
絵本「そのとき、いわかげにスイミーはみつけたスイミーのとそっくりの、ちいさなさかなのきょうだいたち。」
教科書「出てこいよ」「いっぱいだよ。
絵本「でてこいよ」「いっぱいだよ
教科書 小さい赤い魚たちは、こたえた。「だめだよ。大きな魚にたべられてしまうよ。」
絵本   「だめだよ。」ちいさなあかいさかなたちはこたえた。「おおきなさかなに、たべられてしまうよ。」
※絵本と教科書の違いから生まれる解釈の違い
①教科書では、岩陰にいる時に「考えた」とも読めるが、絵本では、仲間たちが出てきてから、スイミーはいろいろ考えたように読める。仲間たちは、まだ解決策がわからないうちに、スイミーの説得に応じたことになる。
②上記の背景(海の中の生き物の楽しい姿)があるため、スイミーが岩陰にいる魚たちに呼びかける「おもしろいいきものがいっぱいだよ。」が読み手に実感として伝わってくる。よってこの場面の読みは、前の場面の読みが前提となっている。
③時間的経過。
P5455
教科書では一場面として描かれているが、絵本では下の3つの場面に分けて描かれている。
1「スイミーは教えた。けっして、はなればなれにならないこと。みんな、もちばをまもること。」
 絵はまだ大きな魚が頭の部分しか完成していない。
2「みんなが、1ぴきの大きな魚みたいにおよげるようになったとき、スイミーは言った。『ぼくが、目になろう。』絵は教科書のP5455の絵
3「あさのつめたい水の中を、ひるのかがやくひかりの中を、みんなはおよぎ、大きな魚をおい出した。」絵は大きな魚のが半分と逃る黒い魚2匹の後ろ半分。
※絵本と教科書の違いから生まれる解釈の違い
①ここでも時間的な経過がある。
②ぼくが目になろう」が絵的にも強調されている。
③教科書では、大きな魚=兄弟たちをたべたまぐろ。という間違ったイメージを持つ子が生まれる可能性があるが、絵本では2匹の逃げる大きな魚が描かれており、一匹は明らかに例の「まぐろ」ではないことがわかる。
★絵本と教科書ではかなりの違いがあることがわかる。よって次の様な工夫が必要なのではないか
①絵本をカラーコピーして拡大して、単元の学習期間中は、教室に掲示し子どもたちの目にふれるようにしておく。
②授業では、絵本をスキャンするなどして大きく映し出して授業を進める。
スイミーにおいては特に、海の中の生き物は、一つ一つ子どもたちとその生き物の面白さなどを味わう。
④場面分けを絵本にそって考える。
⑤少なくとも教師は、教科書ではわからない時間的な経過があることを意識して解釈なり指導なりを進める。
★また、「絵本」という観点からは
①「絵を読む」という時間を設定し、子どもたちにも指示をする。
②「絵」と「テキスト」の照応・差異などを授業の読みの中に入れる。