2012年9月26日水曜日

「やまなし」と「賢治」についてのいくつかの考察


人・球の仲間から「やまなし」について意見を求めらた。しかし、最近の研究が入ったUSBが壊れてしまっており答えようがなかった。そこで頭の中にあるものを、思い浮かんだ順に書き記してみた。

1、十二月から十一月へ
「やまなし」には誤植があり、十二月は十一月であったことは定説。絵本との比較を。
よって私自身の実践では、誤植のことを説明し絵本を見せ、十一月として取り扱う。

2「やまなし」の実践とテーマにかかわるいくつかの考察
①    「構造読よみ」
「構造よみ」をすることによって、作品が「対比的」に描かれていることを明らかにする。だから「形象よみ」も「対比しながら読む」という「読みの方向性」が子どもたちにも実感としてわかる。(「構造よみ」は、「形象よみ」や「主題よみ」の方向性が明らかにすることが一つの目的。)多くの実践で「対比して読む」ことは見受けられるが、教師の指示でそうするのと、子どもと一緒に「構造よみ」をする中で、子どもがそれを発見し「だから対比して読んでいこう」とするのでは大違いである。「教師の指示待ち」か、「読みの自立」かが問われる問題だといえる。(あくまで教材は、子どもの読みの自立のために読むことが第一義だと思っています。だから究極的には「発問が消えていく授業」をめざしている。)

②    「二枚の青い幻燈」と「私の幻燈」
「やまなし」の読みで重要なことの一つに、導入部と終結部の読みがある。
「二枚」「青い」「幻燈」などの言葉は、「対比的に・・・」の補強にもなっている。またいわゆる「賢治の青」には特別な意味があり、「春と秋」「明と暗」「生と死」「殺戮と豊穣」などと一般的に言われているテーマそのものを表しているとも言える。
また、「終結部」が「二枚の幻燈は」ではなく、「私の幻燈は」になっている謎も一緒に考えあいたい。

③    「蟹の兄弟・蟹の親子の会話」
「対比的」に読むことで、「魚・かわせみ VS やなまし」的な読みから深めようとする実践、「かわせみとやまなし」から「弱肉強食的な世界」・「食物連鎖的な命の連鎖」、先にあげたテーマへと読み進める実践はよくある。それとともにもう一つの切り口として「蟹の兄弟の会話・親子の会話」から蟹たちの人物形象、特に兄弟の成長を読むことが重要だと考えている。「成長」とはなにかがポイントでもある。
これもよくある実践であるが、子どもたちに五月と十一月の絵を描かせるものがある(私も必ずさせる実践)。子どもたちに絵を描かせたときに、蟹の兄弟の成長している点(たとえば大きさでそれを表現した子もいた)まで描いているかを問うわけである。

④    見える世界の見せない世界
絵を描かせるポイントは、①川上と川下の区別 ②川の中の動き=川の流れ=泡のかたむき ③兄弟の成長 ④全体の色彩などがあげられる
しかし実は、川の中は見えているが、外の世界は見えていない点にも注目が必要である。蟹たちから見えていな世界は、蟹たちからすると「ない」ということであるが、そこは「ない」のではなく確かに「存在」しているのであり、その世界から「かわせみ」と「やまなし」はやってくる。(五月の場面では、先に生きて多くの経験をしている父だけがそれを知っているのである)ここに先にあげた2のポイント「成長」がかかわってくる。
五月の蟹の兄弟にとって外の世界もそうであるが、魚やかわせみも含め「知らない」「見えない」=「ない」(もの)世界なのであり、そこに父の教えがある。それが十一月には少し変化しているのがわかる。ここが「やまなし」を読み解く一つのポイントでもある。
よって、教師が用意すべき絵は、川のなかだけでなく、その外の世界(山・谷・森・空など)までを描いた絵を用意すべきだと思う。私はそうしてきた。そういう意味で、ここでのテーマもまた対比的ではある。

3、宮沢賢治について
 西の南吉・東の賢治と言われ日本を代表する児童文学者である(そうである)が、両者の違いに着目することで見えてくるものもあると私もまた思う。
 日本の農村風景の中に自然の素晴らしさや厳しさ、人の性・悲しさ・命のはかなさ、他者との交わることの大切さや困難さなどを、あくまで日常の中にそれらを美しく歌いあげた南吉に対して、郷土に外国の名前をつけたり、西洋的なものへのあこがれ(かぶれ?)が見えたり、殺戮とも言えそうな死が普通に(?)出てくる、あくまでも非現実の世界=理想郷を作り上げようとした賢治といった感じを私はもつ。
だから賢治には自分とともに生きる同志(トシ・保阪嘉内・・・)を求めたり離別したり、国柱会(満州事変の右翼の思想的なバックボーンとなった)などの宗教に走ったり(賢治は結局死ぬまで国柱会から離別しなかったと言われている。賢治と国柱会との関係、その右翼的思想との関わり方を私も詳しく知っている訳ではない。)といった負の側面(知られていないが)があるのではないかと思う。(それを非難してるのではない。それもまた賢治の生き方であったわけで、人間はそう簡単ではないのではないか、もっと言うと、誰もが葛藤するし苦悩するし間違いも犯す、だからこそ人間は素晴らしいのだという当たり前のことを言っている)
 そういう現実をとらえずに、「賢治の生き方」なるものを盲目的に称賛し(それこそ理想郷的に)、それを子どもに(よきもの、よき生き方として)教えようとするかのような光村のイーハトーブ単元に、私は(そのままには)つきあわないことにしている。

0 件のコメント:

コメントを投稿