2012年8月21日火曜日

人吉球磨の仲間からの質問について

・・・・人吉球磨の仲間から次のような質問がありました・・・・
①授業研究の冊子を見ると、先生とこどもの問答がたくさん見られます。子どもが考える時間や班会議などの時間もきちんととっていますか?(問答だけでは、発言できない子や意見を持たないまま授業に参加する子がいる気がするので・・・・)

②子どもが板書をノートしたり、自分で考えを書いたりする時間は、たくさんとりますか?また、構造読み、形象読みなどで自分の考えをまとめるのは、授業の時間だけで足りますか?



・・・・私の返信・・・・
子どもが考える時間ですがもちろんとっています

構造よみでは、特に班での話し合いをするのが常です
形象読み、主題読みになると、班での話し合いもしますが
「一人よみ」(教材のコピーを貼付けたノートに書き込む)ことが中心になります
そして最も重要な箇所では班での話し合いをさせるようにしています

「大造じいさんとガン」の本に載せてある授業記録は、私の授業記録ですが
私自身は授業中に班会議を多様するのが常です
その話し合いの様子がわかるように
「大造じいさんとガン」の本の中に、
班会議をしている子どもたちの机に録音機を置いて、
班での話し合いをまるまる録音し、それをおこし記録を載せています
「一人読み」もそしてその指導も原則授業の中でさせています

一方、「ごんぎつね」の方は、20年来の国語の仲間の授業記録で
その人は、「一人読み」を原則として宿題としてさせています
ですので「ごんぎつね」の本の山場の部の授業記録でわかりますが、
最初に「一人読み」の確認をさせています(P47 T3)
教師は、授業の前に宿題の「一人読み」に目を通しています
もちろんいきなり「一人読み」ができるわけもなく
最初は授業中に書かせ、書けない子には指導をしています
(「ごんぎつね」の本は持ち上がりのクラスです)
宿題でさせる段階になってからも
必ず目を通して、書けていない子には個別指導を入れたりしています

班会議は意見を持てない子のためにだけあるのではありません
もちろん当初はそういう役割があるのですが
なにより
教師の指導=一人読みの個別指導
子どもの経験=読む力の蓄積
の積み重ねで
意見を持てるようにすることが大切で
それぞれの意見を出し合い深める
あるいは、自分とは違う他の意見を聞くことで新たな視点なりが見えてくる
そのために班会議はあると思います

私が班会議を多用し、もう一方の方が一人読みの宿題を多用するのは
私のもう一人の方のこれまでのクラス規模の違いがあると思います
私ともう一人の方は20年ほど前にある学校で2年間同学年でした
それから私はほぼ30人以上のほぼ大規模校で教員生活を送り、
しかもここ十数年は一年限りのクラスであるのに対し
もう一方の方は、20名程度あるいはそれ以下の単独クラスの、
しかも持ち上がりで教員生活を送っています
その環境というか、条件の違いが
授業スタイルの違いの原因の一つになっていると私は思っています

先生はメールに「問答」と書いていますが
「問答」と「討論」は違います
ある場面は「問答」だし、ある場面は「討論」になっているはずです
混合している時もあります
ただ
基本的には
構造よみは「討論」的です
形象読み主題よみは「問答」的です
それは「構造よみ」と「形象・主題よみ」の性質の違いからきています
「構造よみ」はある意味決着をつける方向で授業が進むのが常です
一方「形象・主題よみ」は、みんなで造り上げる、読み広げる
みんなで深め合う方向で授業が進むからです

ここまでが①に対する回答です
次に②です

私は授業中にノートの時間はとっています。自分で考える時間もとります
「たくさん」かどうかは「たくさん」が比較する言葉ですからわかりません
なにと比較して「たくさん」かがわからないからです
ただ、どちらにせよ授業中だけでは時間はたりないと思います
「残りは宿題」ということにしたり、
「残りは次の時間(他の教科)のチャイムがなって5分間(時には10分)あげるから
そこで書きなさい」のどちらかです。
ただ、基本的に「一人読み」で書き込みができていますから
たりない部分のみを書けばいいわけです
そのためにはノートの工夫が必要です
「ごんぎつね」の本に載せているプリントを使ったり
教材をコピーしたものを貼らせておいたり、、、、

ただ、最近は、授業の記録を取らせるより
授業の気づきや感想、わかったことを文章で書かせることが多いように思います
明治図書「石臼の歌」には昔の私が指導した子どものノートが資料として載っています
まあ、今とはずいぶん違うので、参考にはなりませんが、、、、