2012年9月26日水曜日

「やまなし」と「賢治」についてのいくつかの考察


人・球の仲間から「やまなし」について意見を求めらた。しかし、最近の研究が入ったUSBが壊れてしまっており答えようがなかった。そこで頭の中にあるものを、思い浮かんだ順に書き記してみた。

1、十二月から十一月へ
「やまなし」には誤植があり、十二月は十一月であったことは定説。絵本との比較を。
よって私自身の実践では、誤植のことを説明し絵本を見せ、十一月として取り扱う。

2「やまなし」の実践とテーマにかかわるいくつかの考察
①    「構造読よみ」
「構造よみ」をすることによって、作品が「対比的」に描かれていることを明らかにする。だから「形象よみ」も「対比しながら読む」という「読みの方向性」が子どもたちにも実感としてわかる。(「構造よみ」は、「形象よみ」や「主題よみ」の方向性が明らかにすることが一つの目的。)多くの実践で「対比して読む」ことは見受けられるが、教師の指示でそうするのと、子どもと一緒に「構造よみ」をする中で、子どもがそれを発見し「だから対比して読んでいこう」とするのでは大違いである。「教師の指示待ち」か、「読みの自立」かが問われる問題だといえる。(あくまで教材は、子どもの読みの自立のために読むことが第一義だと思っています。だから究極的には「発問が消えていく授業」をめざしている。)

②    「二枚の青い幻燈」と「私の幻燈」
「やまなし」の読みで重要なことの一つに、導入部と終結部の読みがある。
「二枚」「青い」「幻燈」などの言葉は、「対比的に・・・」の補強にもなっている。またいわゆる「賢治の青」には特別な意味があり、「春と秋」「明と暗」「生と死」「殺戮と豊穣」などと一般的に言われているテーマそのものを表しているとも言える。
また、「終結部」が「二枚の幻燈は」ではなく、「私の幻燈は」になっている謎も一緒に考えあいたい。

③    「蟹の兄弟・蟹の親子の会話」
「対比的」に読むことで、「魚・かわせみ VS やなまし」的な読みから深めようとする実践、「かわせみとやまなし」から「弱肉強食的な世界」・「食物連鎖的な命の連鎖」、先にあげたテーマへと読み進める実践はよくある。それとともにもう一つの切り口として「蟹の兄弟の会話・親子の会話」から蟹たちの人物形象、特に兄弟の成長を読むことが重要だと考えている。「成長」とはなにかがポイントでもある。
これもよくある実践であるが、子どもたちに五月と十一月の絵を描かせるものがある(私も必ずさせる実践)。子どもたちに絵を描かせたときに、蟹の兄弟の成長している点(たとえば大きさでそれを表現した子もいた)まで描いているかを問うわけである。

④    見える世界の見せない世界
絵を描かせるポイントは、①川上と川下の区別 ②川の中の動き=川の流れ=泡のかたむき ③兄弟の成長 ④全体の色彩などがあげられる
しかし実は、川の中は見えているが、外の世界は見えていない点にも注目が必要である。蟹たちから見えていな世界は、蟹たちからすると「ない」ということであるが、そこは「ない」のではなく確かに「存在」しているのであり、その世界から「かわせみ」と「やまなし」はやってくる。(五月の場面では、先に生きて多くの経験をしている父だけがそれを知っているのである)ここに先にあげた2のポイント「成長」がかかわってくる。
五月の蟹の兄弟にとって外の世界もそうであるが、魚やかわせみも含め「知らない」「見えない」=「ない」(もの)世界なのであり、そこに父の教えがある。それが十一月には少し変化しているのがわかる。ここが「やまなし」を読み解く一つのポイントでもある。
よって、教師が用意すべき絵は、川のなかだけでなく、その外の世界(山・谷・森・空など)までを描いた絵を用意すべきだと思う。私はそうしてきた。そういう意味で、ここでのテーマもまた対比的ではある。

3、宮沢賢治について
 西の南吉・東の賢治と言われ日本を代表する児童文学者である(そうである)が、両者の違いに着目することで見えてくるものもあると私もまた思う。
 日本の農村風景の中に自然の素晴らしさや厳しさ、人の性・悲しさ・命のはかなさ、他者との交わることの大切さや困難さなどを、あくまで日常の中にそれらを美しく歌いあげた南吉に対して、郷土に外国の名前をつけたり、西洋的なものへのあこがれ(かぶれ?)が見えたり、殺戮とも言えそうな死が普通に(?)出てくる、あくまでも非現実の世界=理想郷を作り上げようとした賢治といった感じを私はもつ。
だから賢治には自分とともに生きる同志(トシ・保阪嘉内・・・)を求めたり離別したり、国柱会(満州事変の右翼の思想的なバックボーンとなった)などの宗教に走ったり(賢治は結局死ぬまで国柱会から離別しなかったと言われている。賢治と国柱会との関係、その右翼的思想との関わり方を私も詳しく知っている訳ではない。)といった負の側面(知られていないが)があるのではないかと思う。(それを非難してるのではない。それもまた賢治の生き方であったわけで、人間はそう簡単ではないのではないか、もっと言うと、誰もが葛藤するし苦悩するし間違いも犯す、だからこそ人間は素晴らしいのだという当たり前のことを言っている)
 そういう現実をとらえずに、「賢治の生き方」なるものを盲目的に称賛し(それこそ理想郷的に)、それを子どもに(よきもの、よき生き方として)教えようとするかのような光村のイーハトーブ単元に、私は(そのままには)つきあわないことにしている。

2012年9月23日日曜日

「くじらぐも」(なかがわりえこ)   教材研究

※サークルで提案したものだが、まだ走り書き程度であり、指導言もねられていない。あくまでもたたき台として提案しておく。

★作品構造(1年生なので授業では指導しないが、教師の教材研究として)
・冒頭・・・四じかん目のことです。(日常)
・発端・・・「まわれ、みぎ。」(子どもたちが働きかける日常と非日常の狭間)
・山場のはじまり・・・その ときです。(子どもたちが雲にのる 非日常)
・クライマックス・・・「さあ、およぐぞ」
・結末・・・空は、どこまでもどこまでもつづきます。
・終わり・・・あおい空のなかへかえっていきました。
※サークルでは発端の理由を説明が終わり描写がはじまる部分ということで、「くじらも、たいそうを はじめました。」にしたのだが、「くじらも、たいそうを はじめました。」から「まわれ、みぎ。」の前までは描写的と言えるのだろうかという疑問が残った。「くじらぐもの」からと「まわれ、みぎ。」からでは書かれ方に違いがあると思う。「まわれ、みぎ。」からが描写的と言えると考え発端を「まわれ、みぎ」とした。

1導入部
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 四じかん目の ことです。
 一ねん二くみの 子どもたちが たいそうを して いると、空に、大きな くじらが あらわれました。まっしろい くもの くじらです。
「一、二、三、四.」
くじらも、たいそうを はじめました。のびたり ちぢんだり して、しんこきゅうも しました。
 みんなが かけあしで うんどうじょうを まわると、くもの くじらも、空を まわりました。せんせいが ふえを ふいて、とまれの あいずを すると、くじらも とまりました。

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★「くじら」ってどういうの?
→大きい。おなかが白い。泳ぐ。頭がいい。魚ではなく人間の仲間。
★このくじらは何ですか?
→くも
★くもってどういうの?
→空にういている。白い。ふわふわ、流れていく
★白(い雲)ってどんな色?
→きれい、クリームみたい、ふわふわしている感じ、、、、
★くじらぐもとは、どんなくもですか?
→くじらみただからとっても大きい でも雲だから白い

【時】
★いつの話ですか(時)?分かるところに線を引きなさい
★「4時間目」とはどんな時間ですか?
「4時間目」みんなはにいつも思うことがありますか?あったら発表しなさい。
→給食の前、午前中の最後、もうすぐ終わり、、、、、
★みんなは4時間目が好きですか?それはなぜですか?
★この物語では4時間目は何の授業ですか?
★体育ってどんな時間ですか?
★みんなは体育が好きですか?それはなぜですか?

【場】
★場所はどこですか?分かるところに線を引きなさい。
★運動場ってどんなところですか?みんなは運動場って言葉で思い出すことがありますか?好きですか?理由は?

【人物】
★出てくる人は誰ですか?誰のお話ですか?
→くじら 子どもたち 先生
★「子どもたち」ってどういう意味?「子ども」とどう違う?
★何人くらいいるのかな?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
★「一、二、三、四」は、誰が言っているのか?
「一、二、三、四」って何をしているのか?
★「くじらも」の「も」って何? どこに書いてある?
→「子どもたちがたいそうをしていると」
★「くじらが、たいそうをはじめました。」とどう違う
★同じような「も」はもうないかな?・・・
★「しんこうきゅうも」の「も」は?
→「のびたり ちぢんだりした上に、しんこきゅうさえも」(強調)
「くじらも」
「くじらも」
導入部としてまとめる
★時・・四時間目(体育)→午前中の最後、給食の前。あと少しで大好きな給食の時間。
    体育の時間→大好き。
★場・・運動場=広い 思いっきり走ったりできる場所。しかも天気がいい=みんなが大好きな場所。
★人物・・・一年二組の子どもたち→「あのくじらは・・・」=好奇心
                →「子ども」と「子どもたち」の違い。複数、男女
                →給食前で広い運動場で大好きな体育をしている
                =楽しい。うれしい気分
      くじら=くものくじら→大きい まっ白 ふわふわ浮いている のんびり
          みんなのまねをしているところから学校が好き、子どもたちがすき
★事件設定・・・みんなが4時間目の体育の時間に、体操をしていると、空に大きなくじらがあらわれ、子どもたちのまえをした。

2展開部
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「まわれ、みぎ。」
せんせいが ごうれいを かけると、くじらも、空で まわれみぎを しました。
「あの くじらは、きっと がっこうが すきなんだね。」
 みんなは、大きな こえで、
「おうい。」
と よびました。
「おうい。」
と、くじらも こたえました。
「ここへ おいでよ。」
みんなが さそうと、
「ここへ おいでよう。」
と、くじらも さそいました。
「よし きた。くもの くじらに とびのろう。」
 男の子も、女の子も、はりきりました。

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★「まわれ、みぎ」は誰が言っているのか?
→「せんせいが、ごうれいをかけると」
★「あのくじらは、きっと学校が好きなんだね」は、「誰が」「誰に」言ったのですか?
★みんなは、なぜ、このくじらは学校が好きだと思ったのですか?
→みんなのまねをしたから(たいそう、のびたりちぢんだり、しんこきゅう、かけあし、とまれ、まわれみぎ、よみかけ、、、)
★この子どもたちはどんな子どもたちですか?
→とっても元気、楽しそう、運動大好き、好奇心旺盛、
★このくじらはどんなくじらですか?
●雲が体操をしたり、みんなのまねをするのかな? もし本当にそういうことがあったらどうかな?
→みんなにはそう見えたんだよ。わかんないけど、そうだったらいいな・・・
★最初の「おうい」は、誰が誰をよんだのか?
★二番目の「おうい」は?
★最初の「おうい」と二番目の「おうい」はどうちがいますか?
★なぜみんなはくじらを呼んだのですか?=学校が好きだと思ったから
★同様に「ここにおいでよ」も問う
★「さそう」って何?
★「よしきた。・・・」は誰のセリフですか?
※子どもたちとも読めるが先生とも読める。
★ここはなんだか面白い感じがしませんか?どういうところが面白いのですか?
=掛け合い、くりかえし、くじらがまるでまねをしているようだから
☆じゃあ、「みんなは、大きな声で・・・」から「はりきりました」まではどんな風に読んだらいいかな?
掛け合いが文学の面白さの一つ。それを体感させる方法として音読をさせる。
「子どもたち」、「くじら」、「地の文」に分けてそれぞれどんな風に(大小、高低、速さ、区切りの4つ程度を)読めばいいかを読み取りと並行して確認し、実際にそれぞれの役に分けて音読(群読?)させる。
同様に後半部分の掛け合いも読み取った後に音読させる。
★このくじらはどんなくじらかな?
面白い、やさしい、みんなが好き、、、、


3山場の部
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 みんなは、手を つないで、まるい わに なると、
「天まで とどけ、一、二、三。」
と、ジャンプしました。でも、とんだのは、やっと三十センチぐらいです。
「もっと たかく。もっと たかく。」
と、くじらが おうえんしました。
「天まで とどけ、一、二、三。」
 こんどは、五十センチぐらい とべました。
「もっと たかく。もっと たかく。」
と、くじらが おうえんしました。
「天まで とどけ、一、二、三.」
 その ときです。
 いきなり、かぜが、みんなを 空へ ふきとばしました。
そして、あっと いう まに、せんせいと 子どもたちは、手を つないだ まま、くもの くじらに のって いました。
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★なんで手をつないでまるいわになったのかな?
→力を合わせるため、その方が飛べそうだから、みんなで一緒に飛ぶため、、、、、
★「みんなは手を・・・」から「そのとき」の前までのくりかえしを音読で
三十センチと五十センチを実感させ、その違いも実感させる。
 みんなで飛ぶのだから、声を合わせている。そのためには息も合わせていることを分からせる。
 3回のセリフが徐々に大きな掛け声になっていくことの理由を読み取らせる。必死さも大きくなっている。
「そのとき」はどう読めばいいか考えさせる。
★「天までとどけ 一、二、三。」が3回出てくるけど、どう読んだらいいかな?
それはなぜかな?どうしてそう読むのかな?同じでいいかな?
・最初は三十センチだったから、2回目は今度こそって思って1回目より大きな声になると思います。
・2回目は五十センチになったんだから、だんだん力がこもってきたと思います。3回目は「いよいよ飛ぶぞ」「こんどこそ飛べそうだ」という感じだから、もっと大きな声だったと思います。わくわくした気持ちがあると思います。
・大きさだけでなく、みんなで気持ちをそろえていると思います。
★「そのとき」とは?
→突然、急に、、、①風が吹いてきた。②何かが起こった(変わった)。
 ここから普通ではありえない世界へ(ファンタジー)
★みんなはなぜ雲に乗ることができたのか?→風が吹き飛ばした。
★風はどこから吹いてきたんだろう?なぜ吹いたんだろう?
★じゃあ「そのときです」はどう読んだらいいかな?
・急に吹いたんだから、速く読むほうがいいと思います。
・吹き飛ばしたんだから、そうとう強い風だから、やっぱり大きな声で読んだ方がいいと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「さあ、およぐぞ。」
 くじらは、あおい あおい 空の なかを、
げんき いっぱい すすんで いきました。
うみの ほうへ、
むらの ほうへ、
まちの ほうへ。
 みんなは、うたを うたいました。
空は、どこまでも どこまでも つづきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
★なぜここだけ「くもの くじら」なのか?
★「さあ、およぐぞ」は誰のセリフ
★どこを泳ぐのですか? くじらがいう泳ぐってどういうこと?
★くじらはどこを泳ぎましたか?
→「あおい あおい 空の中」
★「あおい空」と「あおい あおい空」ではどう違いますか?
★同じような使い方の言葉があります。線を引きましょう。
→「どこまでも どこまでも」
★くじらはどこへ行きましたか?
→「うみのほうへ、 むらのほうへ、 まちのほうへ」
★「うみのほうへ・・・」とはどういう意味ですか?
→あちこち 遠くまで 、、、
★みんなは、なぜ歌を歌ったのですか?歌ってどういうものかな?
→楽しい。うれしい。わくわくうきうき
★「どこまでも どこまでも」とはどういう意味ですか?
→空が広いってこと
★空が広いということがわかる言葉は他にありませんか?
→「つづきます」
★「つづきます」と「つづいています」ではどう違いますか?進行形・完了形?
 「つづいています」は目の前に広がっている、続いている感じがする。
※これをどうやって子どもたちに実感させるのか、、、、
 
4終結部
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「おや、もう おひるだ。」
せんせいが うでどけいを みて、おどろくと、
「では、かえろう。」
と、くじらは、まわれみぎを しました。
 しばらく いくと、がっこうの やねが、みえて きました。
くじらぐもは、ジャングルジムの 上に、みんなを おろしました。
「さよなら。」
みんなが 手を ふったとき、四じかん目の おわりの チャイムが なりだしました。
「さようなら。」
くもの くじらは、また、げんき よく、あおい 空の なかへ かえって いきました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
★「おや、もうおひるだ」は誰のセリフ?
 どんな気持ちで言ったのですか
★学校からどのくらい離れていたのですか。それがわかるところに線を引いてみましょう。
→「しばらく」だから結構遠くまでいっていた
→「みんなが手をふったとき・・・チャイムが・・」だから長い時間飛んでいた
★学校の屋根を見たことがありますか?なぜ学校の屋根が見えたのですか?
★「鳴りだしました」と「なりました」の違いは?
★なぜここだけ「くじらぐも」なのか?


●変化したこと
くものくじら(p4)→くじら→くものくじら(p9)→くじら→くじらぐも(p12)→くものくじら(p13)
みんながいる場所  運動場→空→ジャングルジム(運動場)
日常→非日常→日常  非日常のはじまり=「そのときです」
※課題
・「よし きた。くもの くじらに とびのろう。」は誰の言葉か?
・「そのときです」の読ませ方。
・くじらぐもの呼び名の変化に意味はあるのか?
・音読の部分の指導。
・子どもたちへの「線引き」のさせ方

2012年9月20日木曜日

例会報告9月16日   参加15名

低学年シリーズ その3 「くじらぐも」
低学年の3回目(1回目スイミー 2回目お手紙)

まあ、かってに低学年シリーズと思ってやってきたのですが
低学年を続けてきて、だいぶ低学年での指導で
留意すべきことが見えてきたように思います。
もとより表層のよみに重点を置きながらを前提に
①会話文の主の確認
②主語 述語の関係の確認
③文意の確認
をしながら進める

①文学の面白さの1つである「謎」に着目させる(お手紙)
 へんだな、あれ?と思ったところに線を引かせる
 子どもの「?」感覚を育てるため、教師からも「?」を投げかけるなど
②高学年の読みを意識して、教師の教材研究を進める
 導入部では「時」「場」「人物」「事件設定」を教師の指示で読み取らせる、
 事件の変化に着目させる、気持ちではなく「人物形象」の読みに導く助言をうつなど
③表現技法をきちんとおさえる(スイミー)
 普通の表現(や他の表現)と比較したり、語句を抜いた文と比較したりする
 他の例文を用意するなど準備が必要
④あくまでも「読み」を深めるために「音読」利用する(くじらぐも)
 「大小、高低、速さ、区切り」の4つ程度をめどに、
 「なぜ大きい方がいいと思うの?」などとあくまでも読みの深化を目的に進める
 文学の面白さの1つでもある「くりかえし」の面白さを体感させることもできる

思いつくままに羅列してみた。
まだまだ曖昧で漠然としているが、3つの教材をみんなで読んでみる中で
なんとなく見えてきたものがあり、今後のそれぞれの実践で検証・補強して
いくことが大切だと思えた
低学年も面白い「読み」の授業が可能だということは確認できた

2012年8月21日火曜日

人吉球磨の仲間からの質問について

・・・・人吉球磨の仲間から次のような質問がありました・・・・
①授業研究の冊子を見ると、先生とこどもの問答がたくさん見られます。子どもが考える時間や班会議などの時間もきちんととっていますか?(問答だけでは、発言できない子や意見を持たないまま授業に参加する子がいる気がするので・・・・)

②子どもが板書をノートしたり、自分で考えを書いたりする時間は、たくさんとりますか?また、構造読み、形象読みなどで自分の考えをまとめるのは、授業の時間だけで足りますか?



・・・・私の返信・・・・
子どもが考える時間ですがもちろんとっています

構造よみでは、特に班での話し合いをするのが常です
形象読み、主題読みになると、班での話し合いもしますが
「一人よみ」(教材のコピーを貼付けたノートに書き込む)ことが中心になります
そして最も重要な箇所では班での話し合いをさせるようにしています

「大造じいさんとガン」の本に載せてある授業記録は、私の授業記録ですが
私自身は授業中に班会議を多様するのが常です
その話し合いの様子がわかるように
「大造じいさんとガン」の本の中に、
班会議をしている子どもたちの机に録音機を置いて、
班での話し合いをまるまる録音し、それをおこし記録を載せています
「一人読み」もそしてその指導も原則授業の中でさせています

一方、「ごんぎつね」の方は、20年来の国語の仲間の授業記録で
その人は、「一人読み」を原則として宿題としてさせています
ですので「ごんぎつね」の本の山場の部の授業記録でわかりますが、
最初に「一人読み」の確認をさせています(P47 T3)
教師は、授業の前に宿題の「一人読み」に目を通しています
もちろんいきなり「一人読み」ができるわけもなく
最初は授業中に書かせ、書けない子には指導をしています
(「ごんぎつね」の本は持ち上がりのクラスです)
宿題でさせる段階になってからも
必ず目を通して、書けていない子には個別指導を入れたりしています

班会議は意見を持てない子のためにだけあるのではありません
もちろん当初はそういう役割があるのですが
なにより
教師の指導=一人読みの個別指導
子どもの経験=読む力の蓄積
の積み重ねで
意見を持てるようにすることが大切で
それぞれの意見を出し合い深める
あるいは、自分とは違う他の意見を聞くことで新たな視点なりが見えてくる
そのために班会議はあると思います

私が班会議を多用し、もう一方の方が一人読みの宿題を多用するのは
私のもう一人の方のこれまでのクラス規模の違いがあると思います
私ともう一人の方は20年ほど前にある学校で2年間同学年でした
それから私はほぼ30人以上のほぼ大規模校で教員生活を送り、
しかもここ十数年は一年限りのクラスであるのに対し
もう一方の方は、20名程度あるいはそれ以下の単独クラスの、
しかも持ち上がりで教員生活を送っています
その環境というか、条件の違いが
授業スタイルの違いの原因の一つになっていると私は思っています

先生はメールに「問答」と書いていますが
「問答」と「討論」は違います
ある場面は「問答」だし、ある場面は「討論」になっているはずです
混合している時もあります
ただ
基本的には
構造よみは「討論」的です
形象読み主題よみは「問答」的です
それは「構造よみ」と「形象・主題よみ」の性質の違いからきています
「構造よみ」はある意味決着をつける方向で授業が進むのが常です
一方「形象・主題よみ」は、みんなで造り上げる、読み広げる
みんなで深め合う方向で授業が進むからです

ここまでが①に対する回答です
次に②です

私は授業中にノートの時間はとっています。自分で考える時間もとります
「たくさん」かどうかは「たくさん」が比較する言葉ですからわかりません
なにと比較して「たくさん」かがわからないからです
ただ、どちらにせよ授業中だけでは時間はたりないと思います
「残りは宿題」ということにしたり、
「残りは次の時間(他の教科)のチャイムがなって5分間(時には10分)あげるから
そこで書きなさい」のどちらかです。
ただ、基本的に「一人読み」で書き込みができていますから
たりない部分のみを書けばいいわけです
そのためにはノートの工夫が必要です
「ごんぎつね」の本に載せているプリントを使ったり
教材をコピーしたものを貼らせておいたり、、、、

ただ、最近は、授業の記録を取らせるより
授業の気づきや感想、わかったことを文章で書かせることが多いように思います
明治図書「石臼の歌」には昔の私が指導した子どものノートが資料として載っています
まあ、今とはずいぶん違うので、参考にはなりませんが、、、、

2012年6月19日火曜日

例会報告 帰り道に考えたこと


参加13名。
はじまりは、4
こりゃあ~どうしたもんだと思いながらのスタートでしたが
最終的には13名。
まあ、最近はこのくらいか、、、



本日の提案は
「低学年の実践を高学年の実践につなげる」
「教材研究を授業につなげる」
2本立て。

1本目のテーマは
分かりやすく言うと
「高学年での学習につながる低学年の学習」と
言った方がわかりよいか
実はここのところ、
本サークルの課題を
「教材研究から、授業化へ」と言った
テーマを持って挑んでいたのですが
それが2つ目のテーマですね。

テーマ1の本日の提案は以下の通り
①低学年では、場面ごとに指導するのだが
その際に、「構造よみ的な意図」を入れていく
②言葉のイメージを客観的なイメージ・形象に高めていく
③表現技法を実態に合わせて指導していく・・・

①はたとえば最初の場面(普通「1場面」などと授業では呼ばれている)
スイミーでいうと次の場面
広い海のどこかに、小さな魚のきょうだいたちが、楽しくくらしていた。 みんな赤いのに、1ぴきだけは、からす貝よりも真っ黒。およぐのは、だれよりもはやかった。 名まえはスイミー。
この場面は「構造よみ」でいうところの「導入部」にあたる
そこで
「今日は1の場面を勉強するよ。じゃあ、スイミーがどんな魚かわかる言葉に線を引いてごらん」(時・場は省略したとする。)
と言って発表させる。
すると
「カラス貝よりも真っ黒」
「およぐのは、だれよりもはやかった」
2つが出される。
それをみんなで読んでいった後
「良く読めたね~。人物を読むときは、見た目(様子)や特技(特徴)などに気を付けて読んでいくことが大事なんだね。」
などと言いながら人物形象の読み方の基礎を指導していく。
同様に、「小さな兄弟」を読む。
必要なら「事件設定」についても発問で線引きさせたりして読み取って行く。
そして1場面が読み終わったら
「実はね、物語の1の場面にはね、このように物語の「紹介(時・場・人物・事件設定)」が書かれているんだよ。だから、1の場面では、いつもどんな紹介が書かれているかを読む事が大事なんだよ。」
と言ったことを説明していくのである。
(必要なら「桃太郎」などの導入部を例にしていくとよい)


こうすることで、高学年の「構造よみ」や「導入部の形象よみ」につなげていくことができる。
また、例えば「場」を読むだとすると、
「こも物語の場所がわかるところに線をひいてごらん?」
と問へば、
「広い海のどこか」
が出される。

「海ってどういうところかな?」と問い
子どもたちに「海」について知っていること、思っていることなどを発表させていく。
これは低学年の授業ではよく見かけるが、
子どもの私的な思いにとどまらせておくのでなく
子どもの発表を教師の方で、
意図的にプラス面とマイナス面とに分け、
海のイメージ・形象等を作りあげていくのである。
その際、海という感じの中に母という漢字があることに気付かせ
「生命の源」的な海の形象を知識として付け加えたりする
そのことで、私的な海のイメージを、客観的な文学の文脈の中での海の形象の入り口へと導くことができると考える。
これが②の提起である。(③は省略)

あれ~、本日の提案を説明していたら、
「帰り道に考えたこと」
=本日提案したスイミーのテーマを「発展・掘り下げる読みのアイデア」
だったんだけどを忘れてしまった。(笑)




2012年6月11日月曜日

絵本を読むということ(スイミー)

本日月曜日は、自分の学校の校内研(大研)の講師ということで
あれこれ準備をしました
といっても例の如く一夜漬
おまけに日曜日は夜中に「スペインVSイタリア」
これを見ずしてサッカーフリークは名乗れませんので
それを見てからということに、、、
朝5時までかかってしまいました
いやはや、、、、
それにしてもイニエスタ
キレッキレでしたね~
私一押しのスペイン
ちょっとイヤな展開ですね


ちなみに教材は2年生「スイミー」
どういう資料を用意しようかと考えた末
「スイミーは、絵本を使うのが必要だ」というのが
当サークルの以前の結論でしたから
この際ということもあり、
1つ目の資料として「絵本」について書いてみました。(以下参照)
もう一つの資料は「本時」を技法で読むとどうなるかというもの





「絵本」教材を読むと言うことについて
校内研資料
★「絵本」教材を授業するときに
絵本は「絵」の「本」という意味である。絵本の「絵」は、いわゆる「挿絵」ではない。テキストと絵では、どちらかというと絵が主体とも言える(もちろん絵本によるのだが)。だとすると、他の(絵本以外の)文学作品とは違って、テキストだけではなく、その「絵」も「読む」必要がある。それは近年大人も絵本を楽しむという傾向が増している現状では、なおさらである。
よって、絵本教材を指導する場合、教材研究にあたっては、教科書だけでなく、①元本の絵本にもあたってみる、②絵についても考察しておく、の2点が必要になってくる。

★スイミーとレオ=レオニ
特に「スイミー」の作家は下記にある通り、デザイナー出身で画家でもある。また、谷川俊太郎は、雑誌に「かれ(レオニ)は、自分を表現したいから絵本を描くという人ではなく、むしろグラフィックデザイン的な感覚で絵本制作をしていたのだと思います。絵の方から発想してテキストを描くというところもあったのではないでしょうか。」と述べている。
レオ・レオニ…1910年オランダ、アムステルダム生まれ。15才でイタリアへ移住。39年ナチスのユダヤ人迫害により、一家でアメリカへ亡命。グラフィックデザイナー、画家、彫刻家として活躍、50才で商業デザイナーを引退、絵本作家に転身。

★「スイミー」教科書と絵本の違い
 教科書  スイミー    
絵本   スイミー ちいさな かしこい さかなの はなし

P4647
テキストは教科書も絵本も同じ。絵は教科書より絵本の方が絵が広い。教科書の絵では、スイミーが群れの中心にいるように描かれているが、絵本ではそうではない。
※絵から読めること…魚たちがおのおのの方向を向いているということ。間隔も、密度も均一ではない。
 スイミーの黒い色が目立つ。というか異質であることがハッキリとわかる。
P48 
教科書  ある日、おそろしいまぐろが、、、
絵本   ところが あるひ おそろしいまぐろが
絵本では、教科書P48のテキストだけで2Pを構成。絵は教科書のP4849の絵と同じ。
※絵から読めること…兄弟たちがバラバラに逃げているが、それでもスイミーだけは魚の視界の外、違う方向(下向き)に逃げているようにも見える。そして多くの兄弟たちは同一方向へ逃げているように見える。

P49  「スイミーはおよいだ、くらい海のそこを。こわかった。さびしかった。とてもかなしかった。」教科書では、P48 と同じ一場面の絵(まぐろ)の中に書かれている。
絵本では、色彩のない(?)誰もいない、なにもない海のかたすみにスイミーがたった一匹泳いでいる絵の中に書かれている。
※この場面での教科書と絵本の違いから考えられるストリーへの影響
絵本では絵とページ数によって、
①スイミーの孤独が絵で強調されている。
②時間的な経過(孤独の時間がかなりあったと考えられる)
※絵から読めること…ここでもスイミーが中心に描かれて折らず、あくまでも海の主体とみえる。その海の中も、色も他のページの海の色と違う。色がないとも言える。他の生き物もまったく描かれていない。さびしい様子。

P5051
教科書では2Pで書かれているテキストは、絵本では、「くらげ」「いせえび」「見たこともない魚たち」「こんぶやわかめのはなし」「うなぎ」「いそぎんちゃく」とそれぞれに2Pを当て合計12Pにわたって、それぞれの生き物の絵が描かれている。教科書の絵は、最後の「いそぎんちゃく」のページのもの。
文章的には、教科書では「くらげ。」と書かれているが、絵本ではそれぞれ「くらげ、、、、」「いせえび、、、」と「、、、、」で書かれ、最後の「いそぎんちゃく。」だけ「。」になっている。
※絵から読めること
①一つ一つの生き物の行き来とした様。その面白さ、きれいさ、神秘、、、=海の素晴らしさ。美しさ。
※教科書と絵本のちがい
①一つ一つの生き物の絵がとてもユニークに描かれており、海の中の楽しさや不思議、様々な生き物が生き生きとして生きているということが強調されている。

P5253(本時)
教科書では一つの場面として見えるこの場面も、絵本では2つに分かれている。P52P53は別の場面である。
教科書の絵は、最初の場面の絵である。絵本では、岩陰から出てきてスイミーについて行く様子の絵が描かれていて
「スイミーはかんがえた。いろいろかんがえた。うんとかんがえた。それからとつぜんスイミーは、さけんだ。「そうだ!」「みんないっしょにおよぐんだ。うみでいちばんおおきなさかなのふりして!」と文章が書かれている。
教科書「そのとき、岩かげにスイミーはみつけたスイミーのとそっくりの、小さな魚のきょうだいたち。」
絵本「そのとき、いわかげにスイミーはみつけたスイミーのとそっくりの、ちいさなさかなのきょうだいたち。」
教科書「出てこいよ」「いっぱいだよ。
絵本「でてこいよ」「いっぱいだよ
教科書 小さい赤い魚たちは、こたえた。「だめだよ。大きな魚にたべられてしまうよ。」
絵本   「だめだよ。」ちいさなあかいさかなたちはこたえた。「おおきなさかなに、たべられてしまうよ。」
※絵本と教科書の違いから生まれる解釈の違い
①教科書では、岩陰にいる時に「考えた」とも読めるが、絵本では、仲間たちが出てきてから、スイミーはいろいろ考えたように読める。仲間たちは、まだ解決策がわからないうちに、スイミーの説得に応じたことになる。
②上記の背景(海の中の生き物の楽しい姿)があるため、スイミーが岩陰にいる魚たちに呼びかける「おもしろいいきものがいっぱいだよ。」が読み手に実感として伝わってくる。よってこの場面の読みは、前の場面の読みが前提となっている。
③時間的経過。
P5455
教科書では一場面として描かれているが、絵本では下の3つの場面に分けて描かれている。
1「スイミーは教えた。けっして、はなればなれにならないこと。みんな、もちばをまもること。」
 絵はまだ大きな魚が頭の部分しか完成していない。
2「みんなが、1ぴきの大きな魚みたいにおよげるようになったとき、スイミーは言った。『ぼくが、目になろう。』絵は教科書のP5455の絵
3「あさのつめたい水の中を、ひるのかがやくひかりの中を、みんなはおよぎ、大きな魚をおい出した。」絵は大きな魚のが半分と逃る黒い魚2匹の後ろ半分。
※絵本と教科書の違いから生まれる解釈の違い
①ここでも時間的な経過がある。
②ぼくが目になろう」が絵的にも強調されている。
③教科書では、大きな魚=兄弟たちをたべたまぐろ。という間違ったイメージを持つ子が生まれる可能性があるが、絵本では2匹の逃げる大きな魚が描かれており、一匹は明らかに例の「まぐろ」ではないことがわかる。
★絵本と教科書ではかなりの違いがあることがわかる。よって次の様な工夫が必要なのではないか
①絵本をカラーコピーして拡大して、単元の学習期間中は、教室に掲示し子どもたちの目にふれるようにしておく。
②授業では、絵本をスキャンするなどして大きく映し出して授業を進める。
スイミーにおいては特に、海の中の生き物は、一つ一つ子どもたちとその生き物の面白さなどを味わう。
④場面分けを絵本にそって考える。
⑤少なくとも教師は、教科書ではわからない時間的な経過があることを意識して解釈なり指導なりを進める。
★また、「絵本」という観点からは
①「絵を読む」という時間を設定し、子どもたちにも指示をする。
②「絵」と「テキスト」の照応・差異などを授業の読みの中に入れる。

小研終わる「動いて、考えて、また動く」

「3~4人くらいじゃない、見に来る先生」
子どもたちには、そう言っていたのですが
なんと10名以上の方が、、、、
ビックリ!

本時は、2段落の「要約読み」でした
さて2段落は次の通り


2段落
①わたしが走り方を工夫し始めたきっかけは、高校生のとき、当時取り組んでいた走り方にぎもんを感じたことでした。
②それは、「ひざを高く上げて」「あしを思い切り後ろにける」、つまり大きな動作で走るというものです
③そうすれば、速く走れるといわれていたのです。
④わたしは、毎日毎日この練習をくり返していました。
⑤けれども、この方法で四百メートルを走ると、苦しくて最後までつづかないのです。
⑥「何かがちがうのではないか。」と、なやみ始めました。

★「柱の文に絞り込みなさい」
文関係の分析
①文が柱
②③文は、①文の「当時取り組んでいた走り方」の説明
④⑤⑥文は、①文の「ぎもん」の説明

★①文で「40字程度の要約文を作りなさい。」
「走り方を工夫し始めたきっかけは、当時取り組んでいた走り方にぎもんを感じたことだ。」

この
A柱の文への絞り込み
B柱の文を時数に合わせて要約する
までは、前教材「大きな力を出す」で学習ずみ

本時では、柱の文の要約文だけでは、わかりにくい時にはどうするか?
というのが課題
ということで、②文から言葉をとって①文の要約文に挿入する
という作業をしました。

いや~子どもたちは頑張っていたのですが、、、
小研ということで、張り切って
要約文を記入するプリント(10マス×5行)を用意したのですが
それが裏目に出ました

要約の仕方としては、
柱の文を
①文節に区切り
②下から時数に合わせてとっていく
という消去法的なやり方ですから、
その消去法的なやり方にあいませんでした、、、
いやはや、、、お粗末様でした

次回リベンジを、、、するか~

2012年6月8日金曜日

「動いて、考えて、また動く」 高野 進 (光村4上)

1段落・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    運動でも勉強でも、「まず動く、そして考える」ことが大切です。
    そうして何度も成功や失敗をくり返しながら工夫を重ねると、きっと、自分にとって最高のものを実現できます。
    わたしは、かって陸上四百メートル走の選手であり、今はコーチとして指導をしています。
    最高の走り方を目ざして取り組んできた長年の経験から、そのように考えるようになりました。

2段落・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
      わたしが走り方を工夫し始めたきっかけは、高校生のとき、当時取り組んでいた走り方にぎもんを感じたことでした。
      それは、「ひざを高く上げて」「あしを思い切り後ろにける」、つまり大きな動作で走るというものです
    そうすれば、速く走れるといわれていたのです。
    わたしは、毎日毎日この練習をくり返していました。
    けれども、この方法で四百メートルを走ると、苦しくて最後までつづかないのです。
    「何かがちがうのではないか。」と、なやみ始めました。

3段落・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    そこで、わたしは、少しでも楽に走れないものかと、べつの走り方をあれこれためしてみました。
    あるとき、「ひざを高く上げるような、大きな動作をせず走ったらどうなるのか。」と思いつきました。
    静岡県の記録会でためしてみると、予想をはるかに上回るすばらしい結果が出ました。
    このとき、必ずしも大きな動作で走るのがよいとはかぎらないのだと思いました。

4段落・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    後から考えて分かったのですが、それまでのわたしの、走るとき「ひざを高く引き上げる」ことばかりを考えすぎていました。
    たしかに、ひざを高く上げることは必要です。
    でも、それは地面をより強くふむために必要なのであり、ただ高く上げることに意味があるわけではないのです。
    同じひざを高く上げる動作でも、地面を強くふむことを意識して行うことが大切なのだと気がつきました。

5段落・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    もう一つの「あしを思い切り後ろにける」ことについては、それからしばらくして、べつの発見をしました。
    あしを後ろにけるのではなく、体の下にしぜんに下ろしていく感じで走るとよいのです。
    走るときは、ついあしを後ろにけって、その力で前に進もうとしています。
    しかし、これではあしが後ろにのこってしまい、そのあしを前にもってくる分のむだが生じます。
    忍者がぴたあっと下り坂をかけ下りていくようなイメージで走ると、体のむだな動きがなくなり、すうっと進んでいけます。

6段落・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    あしの動きと同時に、うでのふりも重要です。
    このことは、陸上をつづけているとだれもが気がつくことです。
    陸上では、「うでで走れ。」という言葉があるほどです。
    ためにし、両手を後ろに組んで数十メートル走ってみてください。
    このほうが速く走れるという人はいないでしょう。
    これでは、着地するごとにかたがゆれてしまい、地面を強くふむことができません。
    右あしを出したときに左うでを前にふる、左あしを出したとき右うでを前にふるようにすれば、体全体のバランスが取れて、うでの力も使って力強くふみつけることができるようです。

7段落・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    このように、いろいろためしながら、自分に合ったあしの動かし方や、うでのふり方を考えました。
    そうすることによって、自分にとって最高の走り方を見つけることができた気がします。
    人によって、ほねの長さや筋肉のつき方はちがいます。
    ですから、習ったことなぞるだけでは、自分に合った走り方を身につけることはできません。
    何がむだか、そうでないかは、自分で動いてみて発見するしかないのです。

8段落・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    こうした経験からみなさんにつたえたいことは、自分にとって最高のものを実現するためには、「まず動く、そして考える」ことが大切だということです。
    自分なりの工夫も発見も、そこから始まります。
    自分から積極的に動いてみましょう。
    そうして、成功や失敗をくり返し、工夫を重ねていくことで、あなたにしかできない方法が、きっと見つかるはずです。

この構造をどう読みますか?

説明文で小研「動いて、考えて、また動く」その1

明日はというか正確には今日ですが、小研をします。
説明文「動いて、考えて、また動く」(高野 進)の「要約よみ」
これまで学年や仲間内では「説明文」の授業を見せり、他のクラスへ飛びこみでしたことはありますが
いわゆる研究授業としてはなぜかはじめてです。

この教材、なんとも難しいんですよね。
教材が、たぶんですが、教科書会社の依頼を受けて高野進が書いたものを、教科書会社の編集者が、4年生の教材になるよう編集?したか、高野にさらに依頼して手を入れさせたか、、、、
よって、作品がゆれているというか、無理があるというか、、、こちらの勝手な想像ですが
ですので、不完全のように感じられます。これまた、かってな思い込みかも知れませんが、、、
ということで、授業化もなかなかむずかしいのですね
まあ、これも研究と考えてますが、、、どうなることやら
さっぱり、いや、まったく見通しが立ちませんね

結果は、当ブログにて報告したいと思います
こうご期待!!

2012年6月5日火曜日

土 三好達治 教材研究


まだ叩き台です。

      蟻が
      蝶の羽をひいて行く
      ああ
      ヨットのようだ



1構造
起①蟻が
承②蝶の羽をひいて行く
転③ああ
結④ヨットのようだ 
  ※①②日常の風景  漢字
      ↓     
③④虚構の世界  かな
      短い②長い→③短い④長い
③「ああ」感嘆・驚き

2技法
★比喩(直喩・明喩) 「~のようだ」
【ヨットと蝶のはね】
効果
A類似性(性質・状態)の強調
      色→白・・・ヨット帆 モンシロチョウ (この蝶の種類は?)
      形→三角形・・・ピンと張ったヨットの帆  劣化していないピンとした蝶の羽(この蝶は死んでどのくらいたっている?)
      動き→ゆらゆらと止まることなく進。(どんなふうに運ばれている?)
Bイメージの広がり、変化
      ヨット→蝶の羽(ヨット=風にゆられ気持ちよい、スポーティー)
      海→土(海=どこまでも続く広がり、さわやかな風、雄大な景色)
日常の小さな世界→どこまでも続く雄大な世界への転換
日常のなにげない光景→美しいものへの変化
 
★対比(蟻→蝶)
★漢字(蟻・蝶)
★二文を四行にわけている
○引いて行く→「運んで行く」との違い?
○題名はなぜ「土」なのか?

3主題
 庭かどこかであろう、蟻が蝶を運んでいる様子を見て、「ああヨットのようだ」と発見することで、日常の小さな世界が、大海原の雄大でのびのびとして美しい世界へと変化する面白さ

★「~のようだ」(直喩)を使って詩を書こう。

「わたしと小鳥とすずと」 教材研究


わたしと小鳥とすずと     金子みすゞ

      わたしが両手をひろげても、
      お空はちっともとべないが、
      とべる小鳥はわたしのように、
      地面をはやくは走れない。

      わたしがからだをゆすっても、
      きれいな音はでないけど、
      あの鳴るすずはわたしのように
      たくさんなうたは知らないよ。

      すずと、小鳥と、それからわたし、
      みんなちがって、みんないい。

1、構造よみ
起①~④ 承⑤~⑧ 転⑨ 結⑩
考察
 ※①~⑧までは対句的(対応句)
 ※⑨だけ七音七音の七七調
 ※一連「わたし」「小鳥」・四行
二連「わたし」「すず」・四行
三連「わたしと小鳥とそれからわたし」=「みんな」・二行
 ※①~⑧までは「ない」「ない」と否定的であるのに対し、⑨⑩は「いい」と肯定へと  変化

2,技法よみ
★律
八五調①②④⑤⑥⑧
七五調③⑦⑩
七七調⑨
全体として七五調
→軽快な調子で、はずんだ感じ
→話者の心情の表れ。明るくはずむような楽しい気持ち。
→「ちがう」ことによる喜び、楽しさ。
 ★対句(対応句)
①②・⑤⑥   ③④・⑦⑧   一連(①②③④)・二連(⑤⑥⑦⑧)
Aリズム感
 B内容的に整った感じを与え、安定感を生じさせる
C両者のコントラストを際立たせる
 D同傾向の特徴を強調する。
(私←→小鳥)(私←→すず)それぞれを否定しつつ、対応句(①②と③④・⑤⑥と⑦⑧)となっていることで逆に両者を相乗的に肯定している。
そしてそのことが「みんなちがってみんないい」へとつながり正に「ちがう」=否定的・負であることが「いい」=肯定的・正へと逆転している
 ★くりかえし
  「わたしが~ても」①⑤  効果は対句と同じ
 ★題名と⑨の順序が違うのはなぜか? 題名の最後に「と」がついているのはなぜか?

※まだ試案でしかありません。みんなで実践・研究をかさねて豊かなものに!!

例会報告

参加九名
ひさしぶりに10名をきった
学生さんは実習中
教員はそれぞれ所用ということだった
やはり人数は多い方が盛り上がるかな、、、

と言っても
後藤さんも参加してくれ(一言も発言しなかったのが気になりましたが、、、)
実習中にもかかわらず鳥取さんも参加してくれ(えらい!さすが!)
西川さんは多忙の中、
今回も参加し意欲的に発言し、会の討論をリードしてくれました


まあ、うん十年前
日高さんや今は亡き長さんたちと「読み研」をしていたころは
ほぼ3名~5名でやっていましたから
それとくらべると、、、、です



「学ぶ」ことはなにより自分のためであり
自己実現なのです
「学び」続けるしか
それも仲間とともに「学び」続けるしかないのだと思います

かっこつけすぎか、、、



内容
詩の学習の最終回
詩の読み方のまとめをまず学習しました
自分としてもひさしぶりに
きちんと「詩の読み方指導」について
書いてみました
次に、上記を受けて
3年生「私と小鳥とすずと」金子みすゞ
5年生「土」三好達治
の2編の詩をみんなで読んでみました
①構造よみ
②技法よみ
③主題よみ
の一連の流れで
ほとんどの詩で面白い授業ができそうだという
実感はもてたのではないかと思います
そして低学年の詩の指導の方向性も
少しだけ見えたかなと、、、、



次回は、もう少し参加が増えるといいな

2012年5月23日水曜日

「瓶にさす藤の花ぶさみじかければ・・・」教材研究


昨日の例会で、読んだ子規の有名な短歌
まだ、仮提案ですが教材研究をアップします
みんなで、さらに深めていきましょう

★構造よみ
A
起「瓶にさす」
承「藤の花ぶさみじかければ」
転「たたみの上に」
結「とどかざりけり」
あるいは
転結「たたみの上にとどかざりけり」

B
起「瓶にさす藤の花ぶさみじかければ」
承「たたみの上に」
転結「とどかざりけり」

C
起「瓶にさす藤の花ぶさみじかければ」
承「たたみの上にとどかざりけり」

★語句
(重要)「みじかければ」=みじかいので・みじかいから
「瓶(びん)にさす」と「瓶(かめ)にさす」
「あおむけに寝ながら花の方を見れば」
「藤の花」→春に咲く。房状になり薄紫の花を沢山つける。

★形象よみ
時
藤の花→春→はじまり。生命の息吹。
毎年咲く。めぐってくる春のおとずれ→対して自分は

場
部屋の中。

人物(視点)
・話者は寝ている。
しかも動けないような状態=病床(かなり重い)

事件設定
・「瓶にさす花」「たたみの上にとどかざりけり」
生け花としては、それがあたりまえ。あたりまえの事。
そこを題材としていることに意味が、、、
私自身の現状(病・苦痛)もあたりまえ
↓ 
死→達観しているのか

・「とどかざりけり」=残念
自分の願いを重ねているのか
やりたいことができない、
自分には時間がない、=とどかない
無念さ。

・・・・・未完

2012年5月22日火曜日

5月22日例会報告

参加者が少ないかと心配していたが
15名参加で驚いた


今回も、悩みに悩んだ
先週火曜、学生向けの学習会を別途したこともあり
疲れてもいて
なかなか準備する気力になれなかった

前回が啄木の短歌を取り上げたのに続き
今回は「いくたびも雪の深さをたづねけり」(正岡子規)と
子規の絶句(3句)をとりあげ、みんなで読んでみた。

俳句は短歌より、より短い
その分、作者の背景等の知識も使いながら
読むことになる。
もちろん、作家論からのアプローチではなく
作品論からのアプローチ
「言葉をてがかり」にして
「31音に隠された謎を解き明かす」
という感じで読んでいく

「いくたびも」では、多くの仲間が実践をして
検証してきたように
小学校では「時」と「場所」の読みで論争が起こり盛り上がる
本日は大人であったし、この俳句を知っている者もいる中ではあったが
それぞれに、自分なりの目のつけどころを出しながら
「時」を読むことができたと思う
この話者(作者・子規)のたずねている様子・雰囲気を
ワクワクしている感じを読ませる助言をうてれば
さらによかったかなと思う。
子規のことを常識的に知っている大人は
どうしてもそれを念頭に読んでいくのであるが
子どもたちは、そこは知らないわけで
なぜ何回もたずねたのか?
という助言に対して
一つにとどまることなく
あくまで可能性を読み広げていくようにしたい
その上で、読みとった上で、
子規についての説明、
及び一般的なこの俳句の解釈を
教える事で
自分たちの(クラス)読みがどうだったかを
客観的に自己評価できると思う

さて、次回は「詩」をとりあげたい
昨日、3~6年までの教科書の詩教材と思われるものを
ひととおり見て、視写(と言ってもパソコンに打ち込んだのだが)した
どれにしようかいまだ迷っているところである
説明文の時のように、学年ごとに教材を
全部見ていくのもいいかなとも思っている
が、まだ模索中、、、、、

教科書をずら~っと見たことで
新たな発見もあった
新しい物語教材がいくつもあり
そちらもみんなで読む価値がありそうだと思った
いつか実現できれば、、、、

いくたびも雪の深さをたづねけり(教材研究)

いくたびも 雪の深さを たづねけり   正岡子規

1、表層読み
  ・季語  雪
  ・切れ字 けり(たずねたもんだなあ)
  ・語句  ①いくたび→何回も
       ②雪の深さ→つもり具合(雪のふりかたではない)
       ③たづねけり→たずねる→◎聞く  ×おとずれる
             →旧仮名遣い
             →けり→切れ字(回想の助動詞・詠嘆)
  ・大まかな全体の意味
        何回も何回も雪のつもり具合を訪ねたもんだなあ

2、構造読み
  いくたびも  雪の深さを  たづねけり
   (起)     (承)  (転・結)
  ・起承は自然な流れ、転結でなぜ聞いたのかという疑問がわく。

3、形象よみ
  【時】  ・季語 「雪」→冬
       ・雪の深さをたづねけり
         冬のはじめ→初めて降ったから気になる。
         しかし、雪の振り方ではなくつもり具合である。そうなると
         冬の中・後頃→たくさん降って積もりそうだから聞いている。
                ということは冬の盛り。

  【場】  場所(地方)はどこか
    ・いくたびも〜たづねけり
      ①北・雪国→雪になれていれば何回も聞いたりしない。
      ②南→南国だと積もることはない。
      ③中央→普段は積もらないが積もることはある。東京か
    ・どういう場所か
      ◎外が見えない場所/部屋の中/窓のない部屋?
      ×いる場所は雪が降ってなくて、電話で聞いているとも考えられ    
       る。しかし、明治時代なのでありえない。また何回もたずねて   
       いるのでその点からも身近にいる人に聞いていると考えられる。

  【人物】  
     ・病気で動けない状況。それもかなり重い病気。だからこそ雪の
      つもり具合などと言うとるに足らないことを「いくども」たず
      ねている。長いこと病気で寝たままと考えられる。
     ・重病だから、家人も何回も見に行ってあげている。
     ・話者は南国の出身。雪が珍しい。
     ・話者の家族(?)は、話者から何回も何回も聞かれても、そのたびに答えている。
      話者のわがまま?をきいている。→それほど重い病気か?

  【事件設定】  
     ○季語を読む
      ・「雪」→+美しい、白、静けさ、清潔、あわい、温かい
          →−冷たい、汚れやすい、弱々しい、はかない。
      ・話者は「雪」に自分を見ているのかもしれない。雪美しさ、
      清らかさ、しかしそのはかなさ、冷たさに自分の人生を見てい
      るのかもしれない。

4,指導言計画

★「時」
提言 「時」を読もう。→雪・雪の深さを
            雪or雪の深さを、どっち→雪の深さを
助言①冬のいつごろ
  ②季語だけしか時は読めないの。
  ③冬の初め・中・終わりいつごろ。

★「場」
提言 「場」を読もう。雪の深さをたづねけり
助言①雪が積もるんだからどこじゃないと考えられる。
  ②何回も聞くんだから、雪になれているの。

  ①話者は今どこにいるの。
  ②たづねるんだから雪を見てるの。

★「人物」
提言 「人物」に移ろう。
助言①どうして話者は何回も何回もたづねるの。
  ②誰にたづねているの。
  ③なぜ自分で見に行かないの。
  ④どのくらいの病気だろうか。

★「事件設定」
提言 「雪」を読んでみよう
助言 ①「雪」の形象、プラス面は、マイナス面は。
    ②話者は「雪」に何を重ねているのか。
    ③「雪」の形象のどれが関係している。

★「主題」
提言「主題」を考えよう。
助言①今まで読み込んできたことをもとに、この歌の解説文を書いてみよう。
雪の美しさとはかなさに人の命の美しさとはかなさを詠み込んだ歌である。   

話者は重病で長いこと寝たきりでなのであろう。今日は雪がはげしく、南国の出身の話者     には雪はめずらしく、長い闘病生活の中での子どものような無邪気さからか、なんどもなん     ども様子をたずねたのであそう。家人もそれに答えて何度も外を見に行っては話者に話し     て聞かせたのであろう。
          
 未完、残念・・・・・